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 僕の住む一族の隠れ里は、恵悟に話したような山の反対側にある田舎の山村ではない。山奥の日の光がほとんど射さないような深い森を抜けた場所にひっそりと構えている。森は一族しか知らない道順を歩かなければ必ず迷ってしまう不思議な場所で、それが電気が人間の暮らしの中に入っても未だに捜し当てられない秘密だ。
 僕が里に着いた頃は既に日がすっかり暮れてしまっていた。どこの家も雨戸だけを開け、微かに炭に匂いが漂っている。僕は急いで家に向かって駆け、庭の井戸で汚れた顔と手を洗った。それから家に入ろうとすると、調度中から父親が覗き込もうとした所に鉢合わせた。
「随分遅かったな。夕飯出来てるぞ」
「うん、分かった」
 いつもと僕は違う表情をしていたのだろうか、それとも帰りが普段よりも遅かったせいか。父は僕の顔を見るなり、いきなり怪訝な表情を浮かべた。
 顔を洗い終えて家に入り早速炉端に座って夕食を食べた。普段ならとっくに食べている時間なのに僕が帰って来ないから待っていたようだ。何となく、怪訝そうな両親の視線が痛く思った。
 夕食が終わり母が食器の洗い物を始めると、父はいつものように手酌でお酒を飲み始めた。それも一刻も過ぎれば後は寝るだけである。里の夜は早い。里に住む一族の一人でありながらそう感じるようになったのは、昔に長老の命令で外界へ買い物に行った人にこっそり貰った雑誌の影響が大きいと思う。それには、日本のどこか都会の風景が写真で掲載されていた。写真というものを生まれて初めて見た感動もそうだが、夜だというのにきらびやかな都会の風景に大きな衝撃を受けた事を今でも覚えている。人間はこの電気の力で昼夜を関係なく遊ぶのだそうだ。けれど里には夜を照らすような灯りは無く、みんな日が暮れれば御飯を食べて寝てしまうだけだ。里にも電気があれば良いのに、そうすれば夜も遊ぶことが出来るのに。僕はいつもそんな事を考える。
「今日は何かあったのか?」
 何度か杯を空け声の調子がやや高くなり始めた頃、父がおもむろにそんな事を訊ねて来た。
「ううん、何で?」
「帰りが遅かったからな」
「大した事じゃないよ。麓近くまで降りて、戻るのに時間がかかっただけだから」
 父の口元が僅かに渋味を持つ。言ってしまった後で、僕もその理由に気が付き、しまったと口を押さえそうになった。そう、普通一族の者は山の麓へ向かう理由が無いのだ。
「まさか、人間の所に行ったんじゃあるまいな」
「行く訳ないよ。第一、父さんだってそうだけど、みんな外には行くなっていつも言ってるじゃないか」
「じゃあ、本当に出てないんだな」
「出てないよ。そんな事するもんか」
「そうか。まあ、お前は人の言う事はいつも聞いてるから、心配はないか」
 そう一息つき、父はまた杯にお酒を並々と注いだ。
 安堵する父とは反対に、僕は内心ひやひやしていた。恵悟と会って、しかも友達になって一緒に遊んだ事なんて、まさか言えるはずもない。チョコレートの事もそうだ。少しでも気付かれたら芋づるでバレてしまう。だから家に入る前に、入念に口や手を洗ったのだ。
 黙っていれば平気だろうと最初は安易に思っていたけれど、案外隠し通すのは大変な事だと感じ始めた。だが、僕は両親は元より他の大人からの信頼があるので何とかなるだろうと楽観はしている。要するに物分かりの良い子供だから面倒は起こさないと思われているのだ。それは、隠し事をするにはとても大きく有利だ。
「そうだ、母さん。買い出しは来週だったかな?」
「ええ、そうですよ。明日の寄り合いで、何を買うのか長老が決めるはずです」
 洗い場の母の返答に、父はぽんと手のひらを打った。
「そう、そうだったな。今回はあれか、冬物の服と薬だったか」
「それと干物もあるって聞きましたよ。山では海の魚は食べられませんから」
 僕達一族は人間とは関わってはいけない掟を守りながら暮らしているものの、長老が認めた場合のみの例外がある。それがこの、時折ある買出しだ。生活に必要なものは里の中でまかなえてはいるものの、どうしても必要なものがある場合は人間の町へ調達しに行かなければならない。その役目を任されるのは、里の中でも特に長老が認めた一握りの者だ。僕の父はその中の一人で、つまりそれは長老からの信頼が厚いという意味である。単に掟を守れるかだけでなく、臨機応変に対処が出来て騒ぎを起こさない機知が無ければ、役目は任せられない。ただ、父がそんなに凄い人なのかは、こうして毎晩お酒を飲んでは変な声で喋る姿からは到底信じられなかった。
「せっかくだしな、何かお土産買ってきてやろうか? 長老にバレないようにこっそりとだけどな」
「じゃあお菓子がいいかな。甘い奴。里にはそういうのが無いから」
「お菓子かあ、それもいいなあ。そうだ小太郎、知ってるか? 人間の町には牛の血で固めたお菓子があるらしいぞ」
 そう得意げに話す父、表情は既に酔いで凝り固まり始めている。
 それは牛の血じゃ無くてカカオじゃないかな。
 父の酔った顔を見て、危うくそう言いかける。下手に知識を披露しても、先程の事を突っ込まれるだけで身を滅ぼしかねない。酔っているから大丈夫とは思うものの、父はどんなに酔っても絶対に記憶は失わないから、明日になってまた追求されてもおかしくはない。
 父も里では比較的人間の事について詳しいというだけで、何もかも正確には把握している訳でもない。けれど、その浅はかな事と分かっていても、酔うとうっかり口に出してしまうのだ。人間の町では絶対にお酒は飲んではいけないだろう。