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「嫌いな奴って、いきなり言われても」
「いるの? いないの? どっち?」
 決して冗談で訊いているのではない真剣な様子の恵悟に、茶化した答えではとても通じないと僕は唇を結んだ。
 嫌いな奴。誰か思い当たる人はいるかと、知っている限りの顔を順番に頭に巡らせた。口うるさい両親、やかましいとは思うけれど嫌いというのとはちょっと違う。近所の大分年下の子供達、あまり接点は無いけれど昔自分の遊び場を荒らされた事があるから、良い印象はないけれどそれだけだ。山の中に勝手に自分の領地を決めて山菜を取らせないようにする里外れのおじさん、一度怒鳴られた事があって苦手な部類の人だけれど、普段接する分には極普通の人だ。
 とにかく何人の顔を並べてみたものの、どれも嫌いだと断言するまでにはいかなかった。元々、隠れ里の中の人付き合いは極めて狭いから、そういう事を考えた事自体がないのだ。嫌うよりも先に、そういう人なのだと納得するのだろう。
「やっぱり別にいないよ」
「ふうん、そうか」
 恵悟はまるで僕の返答が不満であるかのように唇をすぼませながら答えた。そして更に一言、言葉を添える。
「幸せなんだな」
 またしてもその言葉の意図する事が分からず、僕は首を傾げてしまった。幸せなんだとはどういう事なのか、何が言いたいのか。聞き方によってはそれは皮肉にも聞こえてくる。だから続く言葉は選ばなければならなかった。恵悟を怒らせたくない。その一心である。
「何かあったの?」
「何で?」
「だって急にそんなこと言い出すから」
 恵悟は口元を手で押さえ、しばらく俯き加減のまま沈黙する。
 すぐに答えられない、そんな深刻な事があったのだろうか。珍しく口数を少なくした恵悟の挙動に僕は不安を覚える。だけど、どう言葉をかけてどう胸中を掬えば良いのか分からなかった。僕には今までそういう人付き合いをした事がないからだ。
「小太郎は僕以外に友達はいる?」
「いないよ」
「一緒に遊ぶ人とか今までいなかったの?」
「そもそも僕の住んでる村には同い年の子供はいないからね」
「そっか」
 溜息交じりに答え、おもむろに恵悟は立ち上がり洞穴の出口の方へ足を数歩進めた。座ったままの僕からは恵悟の背中だけ、それも逆光のせいで薄っすらとしか見えない。それが何となく、恵悟がそうなるようわざとしたように僕には思えた。
「実はさ」
「うん」
「別に隠すつもりは無いんだけどさ」
「何を?」
「そのさ。僕、一緒で友達がいないんだ」
 いつもよりほんの少し早口に言い切った恵悟の告白。だけど僕は素直には納得が出来ず首をかしげた。恵悟は都会の出身である。都会なら数え切れないほど人がいるのだから、友達なんて幾らでも作れるはずだ。それに恵悟の家は普通の家よりもお金があるから、こういう珍しい玩具を一杯持っている。一緒に遊べば誰だって楽しいはずだ。そんな恵悟が友達がいないなんて、俄かには信じ難い事だ。
「何で僕がこっちに来てるか分かる?」
「病気しているから静養のためだって、前に言ったじゃん」
「あれ、半分は嘘なんだ」
「嘘?」
 思わず上擦った声を上げて問い返す。恵悟は背を向けたまま無言でもう一度頷き返して見せた。僕は恵悟に嘘をつかれていた事にも驚いたけれど、それ以上に何故そんな嘘をついたのかが気になった。そして、それを今打ち明けようとするのにも何か意味があるに違いない。だから、初めからそうなのだけれど、余計な返事をして詮索と取られないように努めた。
「僕が体が弱いのは本当で、都会の空気はあまり良くないんだ。だからこっちに静養に来ているんだけど、それでも学校には行かなきゃならないんだ」
「麓の町の学校?」
「いや、都会の。凄い有名な所さ。うちの父親が、絶対にそこの学校を卒業させたいらしいんだ。だから、こっちの学校に転校の手続きはしていない」
「じゃあずっと学校を休んでる事になるの?」
「休学扱い。でもね、だからってずっと休める訳でもないんだ。重病じゃないからね。時々学校に出なくちゃいけない」
「それじゃあ都会に帰っちゃうの?」
「すぐ戻って来るよ。一週間もしないうちに」
 そこでようやく恵悟はこちらを振り向き、そして白い歯を見せるようににっこりと笑った。僕もそれに釣られ笑い返し、同時に安堵もしていた。恵悟は今、こっちに来る事を、戻る、と言った。恵悟の気持ちはこちらに居たいからそう言ったに違いない。そう僕は思ったのだ。
「だからさ、明日からしばらく来れないんだ。ごめんね」
「いいよいいよ。気にしないで。すぐに戻って来るんだよね?」
「そうだよ。だから、戻って来たらまた一緒に遊ぼう」
「うん、遊ぼう。まだまだこの山には面白い所があるんだもの」
「僕も。また何かお土産持って来るよ」
 その約束は証文も何もない口だけのことだけれど、絶対に守るだろうし自分も破らない、そんな確信があった。それはきっと恵悟も同じだと思う。僕達には口約束でもそれは強い誓いと同じなのだ。その元でまた一緒に遊ぶ約束をしたのだから、恵悟が都会に行ってもまたすぐに戻って来て一緒に遊ぶ事が出来る、僕は一片も疑いは持っていなかった。
 一度は離れても僕たちの仲はきっと変わらない。そう僕は思う。だがその一方でふと、頭の隅を先程の言葉が掠めた。
 嫌いな奴はいるのか。
 どういう意図で恵悟はそんな事を訊いたりしたのだろう? 僕はその事をもう一度訊ねようとは出来なかった。