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 ようやく迎えた、恵悟の約束した日。僕は朝起きるなり急いで御飯を食べて、いつもの落ち合う場、あの原っぱへすっ飛んで行った。まだ朝露の乾いていない時間だからか、そこには恵悟の姿は無かった。いつもは恵悟の方が先に来ているのだけれど、今日ばかりは僕の方が先に到着したようである。
 指定席である飛び出した岩の上に座り、麓から続く山道をじっと見張る。こうして恵悟が来るのを待つのは初めての事である。気分が浮かれているせいか、見慣れた山道を見張っているはずなのに、風で揺れた枝葉を恵悟の姿と勘違いしてしまい、一喜一憂する。
 見張り始めて程なく、のろのろと麓から登って来る人影が現れた。つるつるしたコートや特徴のあるハンチング帽、それに体に見合わない大きなリュック、それらを踏まえ間違いなく恵悟だと僕は確信する。すぐさま岩そ飛び降りると山道を駆け降りていった。
「おーい、久しぶり!」
 手を振りながら恵悟の元へと駆ける。山道を登るのは苦手な恵悟はうつむきながら黙々と歩いていたため、僕の方にはすぐには気付かなかった。僕の声と足音が聞こえようやく顔をあげると、無造作に手を一度上げて応えた。
「あ、ああ。久しぶり」
 間近で見る恵悟の表情、そして今の返事。それはどこか力無いものだった。久しぶりに会ったのに嬉しくないのだろうか。その素っ気無い態度に、僕は少し残念な気持ちになる。
「もしかして疲れてる?」
「ちょっとね。昨日、夜行で帰って来たばかりなんだ」
「夜行って、夜も走ってる電車のこと?」
「そう。それが一番早く戻って来れるからね」
 夜行列車の話は前に恵悟から聞いたことがある。一晩中乗り続ける乗り物の事だ。幾ら座れるといってもぐっすりと眠る事は出来ないだろうし、そもそも恵悟はあまり体力が無い。なるほど、そのせいで疲れているのだろう。僕は恵悟の素っ気なさをそう解釈する。
「んじゃ、少し休んでからにしようよ。ほら、リュック持ってあげるよ」
「いや、いいよ。自分で持つから」
 そう恵悟は手を押しのけるようにして断る。随分険しい態度だと僕は思った。恵悟の何かを傷付けるような言い方をしたつもりはないのだけれど。何と無く連れなさを感じて、僕は一言答え引き下がる。
 その後、僕らは少し休んだ後にいつものように滝や渓谷などを巡って遊び回った。
 恵悟は相変わらず山歩きは苦手で足取りが遅いけれど、しっかりと付いて来てくれるので僕は安心感を覚えていた。だけど、その安心感を覚えるという事そのものが不自然だと僕は思う。久しぶりに恵悟と会って遊んでいるというのに、どうしても恵悟のどこか上の空といった表情が気になって仕方がない。つまり僕は、恵悟の気持ちが僕から離れてしまっているのではないか、本当は都会で暮らしている方がいいのではないのか、そう疑っているのだ。
 僕達は親友である。だから何でも気軽に打ち明けられるし、お互い隠し事も無い。だから、恵悟も何か思う所があるのならすぐに打ち明けてくれるはず。だけどそれは僕の勝手な理想にしか過ぎない。そもそも僕の方こそ既に恵悟には隠し事をしている。自分の素性を明らかにしていないのに、恵悟には何でも秘密を打ち明けて貰う、その考えが思い上がりなのだろう。
 やがて日が西へ傾き始め夕日が辺りに射し始める。どこか煮え切らない棘の刺さったような気分の一日だったけれど、やはり一人で遊んでいる時よりも時間の経過はずっと早く感じられた。
 そろそろ帰る時間だ。いつもなら簡単に口に出来る言葉も、今日ばかりはそうもいかなかった。今日このまま別れたら明日来てくれないかも知れない、そんな予感があったからだ。だから僕は思い切って恵悟に訊ねる事にした。嫌われるかもしれないという不安感はあったものの、済し崩し的に友達を失くしてしまう方がずっと嫌なのだ。
「ねえ、もしかしたら何だけどさ」
「何が?」
「都会の方に行ってる間に何かあったの?」
 恵悟の表情が一瞬揺れ、そして無表情に膠着した。僕はそれを脈があると判断する。当てずっぽうだけれど、あながち的外れな事でもなかったようだった。
「うん……」
 長く沈黙を置いた後、一言だけ恵悟は消え入りそうな声で答え、顔を明後日の方へ背けた。
 否定はしなかった。肯定の意味だけど、明言はしたくないという意味だ。そう思った途端、僕はそれ以上何も訊けなかった。こんな時、何と訊けば良いのか。人付き合いが分からない僕にとってそれは難題だった。
「そろそろ帰るね。それじゃ」
 恵悟は早口でそう言い残し、そのまま麓へと降り始めた。いつものように僕の方を見てはくれなかった。自分の表情を見せたくない、そんな様にも見えた。
「うん、じゃあまた、明日、ね?」
「うん、また明日」
 その言葉を最後に僕達は別れた。
 僕は恵悟の姿が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。また、明日。その言葉はいつもの条件反射で口をついただけの言葉なのか、それとも。本当に明日、恵悟はこの山へ来てくれるのだろうか。僕はいつまでも不安が消せなくて仕方なかった。