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 その日も僕は、朝から恵悟と一緒に遊んで夜にうちへと帰って来ていた。また帰りが遅くなったと父親には言われたものの、それ以上に勘繰られる事もなかった。また今までの日常に戻れたのだけれど、それはあくまで構図だけである。僕は恵悟と楽しく過ごす一方で、あの事がずっとわだかまりとして残っている。
 いつものように夕食を食べ、だらだらと休みながら談笑し、その内に眠くなり床につく。父親も母親も同じ頃には寝てしまった。僕はうとうとと何度か夢を見、まどろんだ後、目が覚めてしまった。普段なら一度寝てしまえば朝まで絶対に目が覚めないのだけれど、やはり自分でも相当悩み込んでしまっているからだろう、嘘のように眠気が無かった。
 真っ暗な天井を眺めながら、僕は恵悟の事を考えた。
 またいつか、恵悟は都会の学校へ行ってしまう。そしてまた恵悟は傷を作って戻って来る。なるべく考えないようにしてはいたけれど、恵悟の顔を見るたびにそれは必ず思い出さされる。恵悟と一緒に遊んでいる以上は、この事を意識しない訳にはいかないのだ。
 何とか出来ないのか。友達が苦しむのをみすみす見過ごす訳にはいかない。
 恵悟が都会の学校へ行かなければいけないのは仕方が無い。だけど、せめて怪我を負わされるような事だけは何とかしてやりたいと思う。せめて僕が一緒に学校へついていく事が出来れば、恵悟を守ってやれるのだけれど。しかしそれは全く不可能な話だ。
 どうすれば恵悟を守れるのか。
 しきりにその事をばかりを考えていると、不意に僕の頭をある考えが過ぎった。
 僕達一族、いわゆる天狗は、人間ではない。かと言って、霞を食べて生きている訳ではない。人間と同じように、生き物を殺して食べる事は避けられない。見た目も人間と変わらず、昔から少しずつ人間の文化を取り入れて隠棲する我々、その一族と人間との決定的な違いは何か。それは、一族には術というものが伝わっている所だ。
 術とは文字通り、天狗の術。あらゆる現象を自らの意のままにする技術である。僕も勉強した訳ではないから、詳しくは分からない。ただ、人間で言う所の科学に位置するようなものだと解釈している。
 身を守るための術を恵悟に教えてやれないものか。僕の閃きはそれだった。しかし実現は非常に厳しいものがある。天狗の術を人間に教えてはならないと掟で決まっている。勇気を持ってその掟を破ったとしても、今度は恵悟に自分の素性を明かさなくてはいけない。恵悟には今まで嘘をついていたと伝えるのだ。そして、そもそもの根本的な事。僕は術というものをまだ一つも覚えていない。
 だが、僕の下した結論は実に単純なものだった。今から、一つだけで良い、術を覚える。そしてそれを恵悟へ教えるのだ。また掟を破る事になるけれど、恵悟は僕にとって初めての友達だから、今は掟よりも友達を大事にしたい。覚悟を決めた上でのそういう結論なのだ。
 覚悟は決まった。次に問題になるのは具体的な手段、方法だ。当然だが人間のために術を教えてくれとは口が裂けても言えない。それに術を覚えている大人は、子供に大した術は教えてはくれない。だから有効な術を覚えるには、こっそりと書物を盗み読んでやるしかない。そして、書物に関しては何の心配も無い。わざわざ探さなくとも、うちの蔵には先祖が残した蔵書が沢山あるのだ。その中から一冊ぐらいこっそり持ち出したとしても、誰も気づきはしないはずである。
 どの書物が自分でも読めるのか。どの書物に恵悟を助けられる術が書かれているのか。まずはその下調べだけでもやっておいた方がいい。
 僕は息を殺して物音を立てぬよう、そっと布団から抜け出し家の外へと出た。うちの蔵は家の丁度裏手の所に建てられている古い建物で、今よりもずっと小さい頃からここには一歩たりとも近づいた事が無かった。子供心に古めかしく薄暗い建物の中には、何か恐ろしいものが潜んでいるような気がしたからだ。
 蔵の入り口は観音開きになっていて鍵は掛かっていない。そもそもこの里の建物は、元々ほとんどに鍵などついていない。盗みを働くような者は里に住んでいないため必要が無いからだ。だから僕にとっては鍵を探す手間が省けるため非常にありがたい事である。
 明かりの無い蔵の中は、僅かに差し込んでくる月明かりでどうにか手の届く辺りまでが見えた。至る所に立ち並ぶ本棚と書物の数々、僕は月明かりを頼りに片っ端から読めそうな書物を探していった。しかし何が書かれているのか分からないほど古い文字ばかりで書かれた書物が多く、なかなか自分にとっつきやすそうな書物は見つからなかった。しかし、これだけあるのだから一冊ぐらいは必ずある、そう僕は信じひたすら書物を探した。
 そんな事を小一時間も続け、あまり長居するのも良くないと思い、続きは明日にと決めて蔵を後にした。今夜探したのは蔵の中の本当にほんの一部だけである。だが、毎日探し続ければきっと何か見つかるはず。恵悟のためにも必ずその一冊を見つけ出してみせる。そう決意を固め直し、その晩は再び床についた。