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 翌朝、僕は朝ご飯を食べてすぐに家から飛び出した。そんな事をすれば家族から不審に見られると分かってはいたけれど、それ以上に時間を惜しんでいた。そうすることで出来る一分一秒で何が出来る様になるのかは分からないのに、とにかく早くいつもの待ち合わせ場所に辿り着きたかったのだ。
 一気に走り抜けて到着したそこには恵悟の姿はまだ無かった。太陽も昇り始めたばかりで、日中ほど明るくもなければ光もいささか肌寒い。さすがに恵悟もこんなに早くは来るはずは無いと思うのが普通だ。
 指定席でもある岩の上に腰を下ろし、恵悟がいつも上がってくる山道へと視線を向ける。恵悟も、今日ほどではないがここに来るのはいつも早い。それほど時間も経たない内にやって来るはずである。そう思うと、自分が緊張していくのが良く分かった。
 今日は特別な事のある日だから何かあるかもしれない。そんな事を片隅で考えていると、やがて恵悟がいつものように大きなリュックを背負って道を登ってきた。昨日と違うのは着ている服ぐらいで、如何にも荷物が詰まっているリュックや綺麗な記事のハンチングも普段通り何ら変わった様子は無い。
「おはよう、今日は早いね」
「たまには早起きも悪くないもんだよ?」
 恵悟は微笑み、岩に上がって僕の隣に腰を下ろす。僅かに息を切らせている恵悟はハンカチで汗を拭きながら、リュックの中から水筒を取り出してごくごくと飲み始めた。喉が渇いたのならば綺麗な川があるのだけれど、恵悟の水筒にはいつも水以外のものが入っていて、そっちの方が好きらしい。大体は果物のジュースが入っているのだけど、一度だけ蜂蜜の入った麦茶が入っていて、それだけはさすがに美味しいとは思えなかったものだ。
「今日は何飲んでるの?」
「ゴールドジュースって言うんだけど、飲んでみる? オレンジに似てるんだ」
 恵悟に勧められるまま、水筒の蓋をコップにして中身を少し注いでもらう。入っていたのは確かにオレンジジュースに良く似た橙色の液体だった。若干赤味が射しているぐらいしか見た目の違いは無い。香りも柑橘系のそれそのままだ。オレンジジュースなら甘酸っぱくておいしいだろうと、僕はあまり気にせずそれを一口飲んでみる。すると予想していた甘酸っぱさよりもまず、まだ青いミカンを食べたかのような渋みが最初に舌を突いてきた。甘酸っぱさばかり考えていた僕は、その不意打ちに思わず顔をしかめてしまう。
「なんかこれ苦いよ」
「それがいいんじゃないか。小太郎は子供だなあ」
 そう笑う恵悟に僕は、そんなに歳は離れていないと口を尖らせる。
 ここまではいつもの通り、よくある事である。けれど、今日はそれからが違った。お互いそれを意識しているせいか、すぐに不自然に会話が途切れてしまう。黙っていても恵悟が昨日の別れ際の言葉を意識しているのが分かった。
 今更かわしても仕方がない。僕はあまり間を空けず、自らの気持ちに勢いをつけて口を開く。
「昨日の話、あれ覚えてる?」
「まあ、一応」
 視線を落としつつ、何でもないという素振りを見せながら水筒をリュックへしまい込む。
「実はね、僕、恵悟に隠してる事があって」
「隠してる? 何を?」
 隠す、という言葉が良くなかったのかもしれない。一瞬、恵悟の表情に不安の色がくっきりと現れた。
「僕はこの山を越えた所の村に住んでるって言ったよね。凄い田舎の」
「だったね。結構遠いんでしょ」
「実はちょっと違うんだ。住んでるのは、この山のずっと奥の所なんだよ」
「奥? この山の? 村があるなんて聞いたことないよ」
「そうだね。でも、あるんだよ。人間の村じゃないから」
「動物の村?」
「ううん、人間じゃない一族の住む村」
 恵悟の表情が緊張する。僕が何を言っているのかと考えを巡らせているのだろうと思った。僕の身の上はかなり突拍子もない話である。それが本当の事なのか、良く考えた冗談なのか、ただの妄想なのか、そこを見極めているに違いない。
「じゃあ、小太郎は……?」
「うん、人間とは違うんだよ」
「人間じゃないってこと……? だったら、何者?」
「いわゆる、天狗だよ。そう聞いてる」
 恵悟は無言のまま表情を目まぐるしく変え始めた。僕があまりにおかしな事を真面目に話し出すからだろう。だけど、僕はそれ以上の事を恵悟に言えなかった。お願いだから信じて、その一言を言えればもしかすると楽だったかもしれない。だけど、それを言ったら恵悟は確実にうんと答えると思う。本当に信じている信じていないにかかわらずだ。そういう気遣いを友達にさせるのは、とても嫌なのだ。
「田舎だと天狗がいるかもしれないって、都会から来た僕をからかってる訳じゃないんだよね……?」
「うん、僕は嘘はついてない。恵悟は友達だもん、嘘なんてつけないよ」
「けどさ。けどね、ラジオ放送が始まった今の時代に、都会でずっと暮らしてた僕には、いきなりそんな事を言われても信じられないよ。別に小太郎の事を疑う訳じゃないけどさ」
「いいよ、それは。僕も多分、そう言われるって思ってた。だからね、そのためにって訳じゃないんだけれど。恵悟にあげたい物があるんだ」
「あげたい物?」
「きっと、都会には無い物だと思うよ」