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「小太郎、勉強の方は捗ってるか?」
 長老から教書を貰って以来、家の中ではそれが父親の口癖になっていた。僕がうちに帰って来て、まず訊ねるのがそれ。事有るごとに訊ねてくるのもそれである。そして今日も、夕方頃になってうちに帰って来た僕に早速父はそれを訊ねてきた。
「何か分からない所はあるか?」
「んー、今の所は別に何も。それに、もう大体終わったよ」
「もうか!? まだ半月しか経ってないのに。いや、父さんが子供の頃は一週間だったけどな」
 驚くのか自慢するのかどちらかにして欲しい。そう僕は苦笑する。それにしても父はいちいち大げさだと思う。こんな初歩中の初歩しか書かれていない教本を、何ヶ月もかけて読む方がおかしい。僕にしても、半月というのは大分時間を薄めて言っているのだ。
「じゃあ、明日辺り長老の所へ行って次の教本を戴いて来るとしようか。そうだな、何か成果をお見せしてやらねば」
「見せられるようなものは無いよ。これ、まだ基礎しか書いてないんだから」
「なに、ちょっと応用すれば出来るだろう? こう起こした風にうまく乗って屋根に飛び上がるとか」
「幾ら何でも無茶だよ。昨日の今日じゃ」
 僕が半月程度で覚えた事をそんなに自慢したいのだろうか。第一、その応用が簡単に出来るのであれば、初めからこんな教本など必要は無いのだ。
「まあ、なんにせよ。基礎だけでも覚えたのならたいしたもんだ。どれ、ちょっと火でも起こしてみろ」
 父が囲炉裏の火を指先で消した。それは何かの術だろうと僕は思った。教本によると、火や風や水というものは意思を持たないからこちらの意思が入り込みやすいのだそうだ。多分その理屈で、火に自分から消させたのだろう。
 僕は消えてまだ温かい炭に指先を近づけ、父と真逆の作用をやってみた。見る間に炭は橙色に輝き出し、赤々と燃えながら熱を発し始める。
「ほら。これでどう?」
「おお、なんとか出来るじゃないか。もうちょっとさりげなく出来れば上出来なんだが」
「だから、まだそんな程度なんだってば」
 少し父親ははしゃぎ過ぎている気がする。少なくとも僕の目にはそう映った。考えてみれば、ここの所里の外で遊んでばかりいるようになったから、父とも会話が疎遠気味になってきている。もしかするとその反動なのかもしれない。共通の話題が出来るのが嬉しいのだ。
「しかし、懐かしいもんだなあ。父さんもお前ぐらいの時に長老から教本を戴いて、必死に勉強したもんだ。それで友達同士で、誰が一番最初に出来るか、なんて競争してさ」
「誰が一番早かったの?」
「そりゃ父さんに決まってるだろう。圧倒的さ。むしろ、友達には教えてたくらいだからな」
「せっかく競争してるのに、それじゃ張り合いないね」
「実際のところ、競争なんてのは二の次三の次でさ。ただ同じ目標をみんなで持ってやるのが楽しかったんだろうな。それに比べると、小太郎、お前はちょっと可哀相だな。里には調度釣り合いの取れる歳の友達がいないんだから」
 友達の事を言われ、一瞬恵悟の顔が頭を過ぎった。人間の友人がいるなど、口が裂けても言えるものではない。慌てて頭の中から振り払う。
「子供が少ないってのは仕方ないんじゃないの。それに、一人で遊ぶのが普通だったからね。特に意識したことないよ」
「まあ、お前なら何とか出来るだろうな。父さんに似て、真面目で物覚えも早いから」
 そこはどうだろう、と疑問符が浮かんだものの、取り合えず流れに合わせて頷いておく。
「さて、明日は父さんも一緒に長老の所へ伺うとするかな。お前一人で行って、粗相でもしたら大事だからな」
 今の話を長老の前でもしたいだけではないだろうか? 逆に父の方が長老にとっては迷惑になりかねないのでは。そんな危惧を抱きつつ、僕はまた曖昧に笑って見せた。お酒のせいも当然あるのだけれど、いつになく楽しそうな父を見るのは悪い気分ではない。
「ねえ、次の教本はどんな事が書いてるの?」
「次か? そうだなあ、もうちょっと細かく術の型を分けた説明とかあるんじゃないかな。内容は父さんの子供の頃のとは大した変わってなかったし、次も多分一緒だろう」
「ふうん。ま、次は父さんよりも早く覚えてみせるよ。次はどれくらいかかったの?」
「いやいや、それよりもだ。ちゃんと最初の頁に書かれてる文面、読んで覚えてるか?」
「ああ、大丈夫だよ。覚えてる」
「本当か? 案外、そういう基本理念っていうものをだな、長老は重視してるから訊ねてくるかも知れないからな。気をつけるんだぞ」
「うん、分かった」
 だけど僕は、分かった、という自分の返事に躊躇いを感じていた。この一番優しい教本にも、あの掟だけはしっかりと書かれている。最初の頁に書かれているのが丁度それだ。一族の術は一切人間に伝えてはならない。既に僕は、破ってしまっている掟である。