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 翌朝、一番に長老の屋敷へ向かい、次の教本を戴いた後でまたいつもの場所へ出掛けていった。幸いにも、今日は長老が不在で代理の人に渡されただけなので、受け取りも早々に終わってくれた。もし長老と父が話し込んだりしたら、午前中が丸々潰れかねないのだ。
 それでもいつもより時間が押してしまった事には変わりは無い。僕は出来る限り急いで山道を駆け抜け、あの原っぱを目指した。普段の半分以下の時間で到着したその場所で、恵悟はいつもの岩の上に座って待っていた。リュックを傍らに置き、膝を抱いたままじっとして動かない。いかにも機嫌が悪そうだと、背中からそんな雰囲気が感じ取れた。そこに僕が近づくと、こちらから声をかけるよりも先に恵悟が振り向き僕を見据えた。案の定、如何にも不機嫌そうなむくれた表情をしている。
「遅いよ、小太郎」
「ごめん、ちょっと用事で」
「用事って?」
「ちょっと急で」
 ばつの悪さで苦笑いをしながら、僕も恵悟の隣へ腰を下ろした。
「実はさ、最近里の長老から術の勉強をするようにって言われてさ。それでほら、こういう教本を貰って読んでいるんだ」
 僕は手にしていた先ほど貰ったばかりの新しい教本を恵悟に見せた。
「ふうん、天狗の学校の教科書って所か」
「そんなものかな。ただ、里には子供が少ないから学校は無いんだ。その上、教本渡しただけの放任主義みたいだし」
「でも、そういうのって自由でいいじゃない。別に宿題も試験もないんでしょ?」
「その代わり、ちゃんと覚えられないといつまで経っても大人として認められないらしいんだ」
「何で? 大人って、別に二十歳超えたら大人じゃないか」
「僕の里ではそう認められない、掟なんだって」
「田舎は大変だねえ」
 恵悟は僕の教本を開き、一頁ずつしげしげと読んでいた。僕でも読めるような文章ばかりだから、年上の恵悟ならさほど読むのには苦労しないはず。きっと内容が人間の社会には馴染みの無いものだから興味があるのだろう。
 ふと、僕は教本の最初の頁に書かれている掟の事を思い出した。この教本を恵悟に見せるのも、本来は掟では許されない。それをすっかり忘れて、普段当たり前の会話をするように僕は許してしまった。その軽率さを反省する反面、どうせもう破った掟なのだから、今更一つ二つ増えたとしても関係ない、そう思った。
 やがて興味が満たされたのか、恵悟は教本を閉じて僕に返した。僕は無くさないように教本を懐の中へとしまい込む。うっかり落としてでもして無くしてしまえば、それはそれで大事になってしまう。
「ん、十時か。せっかくだからおやつにしよう」
 おもむろに懐中時計を取り出して針を見ると、恵悟はそんな事を言いながらリュックを漁り始めた。中から恵悟は紙袋に入った煎餅と竹の葉に包まれた団子を取り出した。珍しくどちらも僕には馴染みのあるものだった。惣兄ちゃんの話では、麓の町で売っているそうだ。
「今日は都会のお菓子じゃないんだね」
「たまにはこういうのもいいじゃん。向こうのはさ続けて食べると飽きるんだ」
「僕にしてみれば贅沢な話だなあ」
 とは言え、この煎餅や団子にしても里ではそうそう食べられるものではない。こういった甘いものは、基本的に外へ買い出しに行って持って帰って来る事を長老に許されなければいけないのだ。里の中でも作りはするけれど、そんなにしょっちゅう食べられるほど数はない。当然、子供にはなかなか回って来ないのだ。
 ひとしきり食べた後、恵悟が持って来た水筒でお茶を飲み一心地つく。恵悟と遊ぶようになってから、随分お菓子を食べる機会が増えたと思う。今までなら、一度食べたらしばらくは忘れられないほどなのだけれど、最近ではいつに何を食べたのかもあやふやになってきている。恵悟は贅沢に見えるけれど、僕もそれほど人の事は言えないかもしれない。
 やがてお腹の具合も落ち着いてきた頃、おもむろに恵悟が訊ねてきた。
「ねえ、さっきの教科書だけどさ」
「なに?」
「これよりも簡単なのってあるの?」
「ああ、僕がこれの前に読んでたのがそう。一番簡単な入門編だよ」
「教科書があるって事は、何か学校みたいなのがあって、先生が天狗の術とか力の使い方を教えてくれるってこと?」
「昔はそうだったみたいだけど、今は違うよ。里には子供があまりいないんだ。僕もこれだけ渡されて後はほったらかし。分からない所があったら訊け、っていう状況かなあ」
「ふうん、それじゃあ小太郎は自分で勉強して覚えたんだね」
「そんな大層なものじゃないよ。第一、まだ覚えたのは基礎中の基礎だけなんだから」
「ねえ、だったらさ。前の教科書、読み終わってるなら貸してよ。ちょっとだけでいいんだ」
 恵悟は僕を拝むように手を合わせてお願いと進み出てくる。突然の申し出に僕は困惑してしまった。まさか恵悟がこんなものに興味を持つなんて思ってもみなかったのだ。
「いや、それは流石に駄目だよ。ばれたら親に怒られる。掟で人に貸しちゃ駄目って決まってるんだ」
「いいじゃん、大丈夫ちょっとだけだから。絶対にばれないって」
「でも……」
「僕ら友達じゃないか。信用しろよ、ばれそうになったらすぐ返すからさ」
 断っても簡単に引き下がらない恵悟に僕は困り果てた。掟に従えば、教本を人間である恵悟に貸す事は許されない。僕の返答も自ずと決まってくる。しかし、その掟と同じぐらいの重さで友達という響きが圧し掛かってくる。掟を守るというのは簡単だが、果たしてそれで恵悟を納得させる事が出来るのか。たとえ諦めさせたとしても、恵悟は僕をどう思うのか。そんな沢山の考えが僕の頭の中で錯綜する。
 これ以上掟は破りたくない。しかし、恵悟に嫌われたくはない。
 しばらく悩み抜いた末、僕は内片方を取る事にした。
「じゃあ、少しだけ。今日は持って来てないから、明日持ってくるけどさ。ちゃんと返してよ。それと、念のため毎日持って来て」
「分かってるって。ばれそうだったらすぐ返すからさ。ありがとう、小太郎は友達甲斐があるなあ」
 そう恵悟は満面の笑みを浮かべ嬉しそうに僕の肩を叩いた。僕は恵悟が喜んでくれるならと嬉しく思う反面、また掟を破ってしまったという罪悪感から、恵悟と同じように屈託なく笑うことが出来ず引きつった笑い顔になってしまった。
 そうやってぎくしゃくと笑い合う中、ふと僕は、自分が掟を破るよりももっと取り返しのつかない所へ踏み込んでいるような気がした。