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 翌日、僕は恵悟との約束通り読み終えた教本を懐に忍ばせ家を後にした。父や母の視線が妙に気になり、いつもより足早に家を出てしまったと思う。呼び止められたり改めさせられる事はなかったから、きっと気付いてはいなかったと思う。自分が持ち歩いている物をこれほど意識したのは生まれて初めての事だ。
 待ち合わせ場所には既に恵悟の姿があった。心なしか、恵悟の後ろ姿がいつもより機嫌良さそうにふわふわしているように見えた。期待されていると、何と無しに僕はそう思った。
「おはよう、小太郎」
「うん、おはよう。今日も早いね」
「いつもよりちょっと早起きしちゃった。朝から凄い寒いけどさ、やっぱ田舎だと空気が澄んでて気持ちいいね。ぶらっと歩くのも悪くないよ」
「都会って空気が汚いんだ?」
「汚いというか臭いのかな。前はそんな風に思ってなかったんだけどさ、こっち来てからは良く分かるんだ」
「ねえ、ところであれ持って来た?」
「ああ、大丈夫。忘れてないよ。はい」
 僕は懐から最初に長老から頂いた教本を取り出し、それを恵悟へ手渡した。
「うわあ、ありがとう。ちゃんと覚えててくれたんだね」
「だって、昨日約束したじゃない」
「そうか、こっちだとそれが普通なのかなあ」
「ん? 何が?」
「都会はね、嘘吐きが多いって事だよ」
 一度約束した事は必ず守らなければいけない。それは物心ついてから当然の事だと僕は思っていた。けれど今の恵悟の口ぶりからすると、世の中には、特に都会にはそれを当然と思わない人もいるようである。前に何か嫌な思いをしたのだろうか、と気に掛かったが、嫌な思いをした事をわざわざ訊ねる事は無いと思いやめておくことにした。
「これが一番優しい教科書かあ。思ったより汚れてないんだね」
「簡単な内容だからね。実はそんなに何度も読んだりしてないんだ」
「じゃあ小太郎って頭いいんだね。僕も負けずに早く覚えよう」
 そうはしゃぎながら恵悟は早速教本を開き読み始める。この教本は元々一族の者のために長老が書いたものだから、恵悟に理解出来るものなのか疑問だった。けれど恵悟は表情を歪める事も無く、ごく当たり前のように読んでいる。実際にどれだけ理解しているのかはさておき、眉を潜めるほど難解で読めないというものではないようである。これは恵悟には応用力というものがあるからだろうか。
「小太郎って、これの次の教科書を読んでるんだよね?」
「そうだね。まだ読み始めたばかりだけど」
「じゃあ早く読み終わって、次に進んでね。そしたら今度はそれを僕が読むから。ね?」
「え? ああ、うん。そうだね」
 なし崩しに次の教本まで貸す約束をしてしまった。断る理由など無い、友達なら当然だ。そういう意味を込めて笑い返そうとしたけれど力が足りず、半笑いになってしまう。それでも恵悟は何指摘する事も無くにこにこと嬉しそうにしている。
 もう言い訳の仕様が無い、そう思った。掟を幾つも破った事は自分の意思であるし、長老も両親も納得させるような理由は見当たらない。かと言って、今更恵悟に掟の事をまたも切り出して教本を返して貰う事も出来ない。
 僕はこのまま進むしかない。そういう表現にしかならなかった。以前なら、掟と友達となら当然選ぶのは友達だとか、自分の選択に迷いが無かった。多分その迷いの無さは、どちらでも選べたからなんだと思う。今はもうそのどちらと自由には選べないから、自分のしている事は取り返しがつくのだろうかと不安になってくるのだ。
「ねえ、恵悟。ちょっと訊いてもいい?」
「ん、何をだい?」
「そんな術の教本なんか読んでさ、何か面白いのかなと思って」
「僕が読んだら悪い?」
 答える恵悟の眉間に小さな皺が寄った。僕は慌てて違う違うと弁解する。
「そうじゃなくてさ。正直、僕はそんなの読んだって面白くも何ともないんだよ。ただ、大人になるために読まなきゃいけないから仕方なく読んで勉強してるんだ。恵悟は別にそんなものを覚えなくたって、歳を取れば大人だって認めて貰えるんでしょ? なのにわざわざこんなものに時間を割くなんて勿体無いなあと思ったんだ」
「ふうん、小太郎はこの教科書が嫌いなんだね」
「僕は勉強熱心じゃないもの。普通に毎日遊んで暮らしてた方が楽しいよ」
 すると、恵悟は口元を緩めながら肩をすくめ、両手を頭ほどに掲げて首を振った。見慣れない奇妙な仕草に僕は小首を傾げる。
「分かってないなあ。これはね、とても貴重な文献でもあるんだよ。文化遺産とでも言った方がいいのかな。でも遺産と呼ぶには新しいか。とにかくね、小太郎はとても貴重な文化を伝える機会に恵まれているんだよ。それを、ちょっと難しいからとか面倒だからといって放棄するなんてね。勿体無いにも程があるよ」
「貴重? 一族の術とかそういうのが?」
「そうだよ。これさえあれば、人間の社会だったらどれだけの物が手に入るのか。例えば―――」
 そこまで言いかけ、恵悟は急に口を閉ざした。
「まあとにかく、小太郎はもうちょっと大事にした方がいいよ。こう使命感というものを持って勉強しなくちゃ。僕も一緒に勉強するからさ」
「うーん、よく分からないけど……。恵悟が大事にした方がいいって言うなら頑張るよ」
「よし、じゃあこれからはここで毎日勉強もしよう。体も動かして頭も動かす。実に合理的だ」
「うん、そうだね。そうしよう」
 正直何がどう合理的なのかは分からないけれど、これまで恵悟が間違った事を言ったことはない。だから僕はさほど考えずに恵悟の言う通りにしようと思った。それに、遊び時間を削ってまで勉強なんかしたくない、という思いがずっと引っかかっていたのだけれど、これでその問題も解決した事になる。こういう事が合理的というものなのだろうか。分からないなりにそんな事を考えた。