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 恵悟がまたいつものように都会の学校へ行ってしまい、二日が過ぎた。今朝はやけに冷え込むと思ったら、外は雪が降っていた。恵悟が戻って来るまで残っているだろうかと思ったけれど、雪はずっと降り続いているから、この寒さが続けば多分溶けないで残っているはずだ。ひとたび冬になれば、春まで雪は溶けない。
 さすがに一人で教本を、それも雪がこれだけ降っている中で読むつもりは無く、今日は一日家の中に篭っていることにした。教本を読んでいると父親がいちいちちょっかいを出して来てうるさいのだけれど、今日は何かの寄り合いがあって父も母も出掛けているから調度良かった。
 今読んでいる教本はほぼ終わり、明日にでも長老の屋敷に行って続きを貰おうと思っている。もう少し頑張って早く終わらせ、恵悟が都会に行く前に持たせてやりたかったけれど、半端に覚えても意味が無いのでこればかりは仕方がないだろう。
 今頃恵悟は都会の学校で勉強をしているのだろうか。そんな事を考えながら、その日は一日教本を読んで終えた。
 翌朝、朝ご飯を食べてすぐに長老の屋敷へと出掛けた。また例のように父親が、何か粗相があってはいけないからと付いて来ると思ったけれど、昨日の寄り合いで飲み過ぎたらしく頭が痛いからと朝からずっと寝込んでいた。何度も通っているのだし、どうせ教本は長老から直接貰うのではないから、父は来ない方がかえって仰々しくなくて良い。
 今朝は朝方に雪が降り止んだらしく、空はすっきりと晴れ渡っていた。その分空気が乾いて肌に痛いほど冷たく、足元も膝が埋まるほどに雪が積もっている。今日は帰ったら雪掻きをしないといけないだろう。
「おはようございます、吉浜の小太郎です」
 開いた長老の屋敷の門前で、中に向かってそう呼び掛ける。いつもこうするとすぐに使用人の誰かがやってきて用件を取り次いでくれる。それに最近は何度も同じ用事で来ているから、僕が顔を見せるだけで用件は伝わる。
 程なくして、顔馴染みにもなった中年のおじさんが中からやってきた。
「おはよう、小太郎君。今朝は寒いね」
「ええ、雪も凄いですね。長老のお屋敷は広いから大変じゃないですか」
「そうだねえ、朝からずっとやってるんだけど、まだ半分も終わってないよ」
「じゃあ、うちの分が終わったら手伝いに来ますよ」
「本当かい? いやあ、助かるなあ」
 そうおじさんは人の良さそうな顔で頭を掻きながら微笑んだ。
「そうそう、いつものあれだったね。それなんだけどさ」
「はい?」
「長老からね、今日は小太郎君が来るから通すように、って言われてるんだ。何か約束でもしていたのかな?」
「いえ、していませんけど」
「そう。とにかく、そういう事だから。さあ、中へ入って」
「分かりました」
 全く無計画に勉強をしている訳ではないが、今日長老の所へ行くのを決めたのは昨日の事だ。それも、母親と酔っ払っていた父親にしか話していない。どこからか伝わったのだろうか。そんな事を考えながら、僕は案内されるまま屋敷の中へと入っていった。
 通されたのは、あの中庭に面した広い板間では無くて八畳ほどの座敷だった。コタツと火鉢が用意されていて、部屋はすっかり温まっている。冬が来て本格的に寒くなってきたから、こちらに移ったのだろう。ひとまず、いきなりコタツに足を伸ばすのは失礼だという事ぐらいは分かるので、コタツの傍で正座しながら長老を待った。長老は程なくして部屋へやって来た。
「よう来たな、小太郎。まずは当たるといい。今朝は寒いからのう」
 長老に勧められて、僕はコタツの中へ足を入れた。長老は肩まですっぽりとコタツ布団を被りコタツの中で手を擦り合わせている。僕よりも大分この寒さに参っているようだった。
「なに、大した用事じゃない。お前さんが思っていたよりも覚えが早いようでな。ちょっとどれぐらいのもんか、話をしてみたくてな」
「どれぐらいと言われても、長老から見たら何も覚えてないようなものですよ」
「年寄りはそういう話が好きなもんじゃよ。どれ、まずは五行の基礎でも諳んじて貰おうかの」
 単なる世話話にしては聊か取っ掛かりが疑問ではあったものの、僕は言われた通り長老の訊ねる事を答えていった。長老はこの里で一番長く生き、一番術や神通力に関して長けている。基礎を覚えたばかりの僕に答えられる問題なのだろうかと不安だったが、思っていたよりも内容は難しくなく、幾つも問いを出されはしたがどれも無難に答えられるものばかりだった。むしろ温情のような温かみすら感じる。単に僕の勉強の捗り具合が気になっているのだろう、そう解釈する。
「ふうむ、さすがは五郎太の血筋じゃ。醜面以外はよう似ておる」
 やがて一通りの問題を終えると、長老は満足そうに笑った。しかし僕は緊張感がまだ抜けなかった。問題が終わっても、相手にしているのは一族の長なのである。そうそう気を抜く訳にはいかないのだ。
「おう、そうだった。次の教本が欲しいのだったな」
 おもむろに長老は立ち上がると、傍の本棚から書物を数冊まとめて取り出して持って来た。
「覚えが早いようだから、今度はまとめて渡すとしよう。ほれ、持って行け」
「はい、ありがとうございます」
 僕は教本の束を手に取りながら御礼を述べた。これでしばらくの間は長老の屋敷へ寄る必要は無くなる。今日はたまたまにしても、大抵は代理の人から受け取るだけなのでさほど時間も手間も無いのだけれど、その手間がすっぱりなくなるのであればそれに越した事は無い。
「ああ、そうじゃ。ところで、北辻の新太を知っておるか?」
「はい、人伝に聞くぐらいには」
「あれも噂によると相当覚えの良い利発な童らしくてな。来年かそのまた次の年か。一族の術を学ばせようと思うておる。まだ先の話じゃが、その時は小太郎、先輩役をやってくれい。親父の新蔵は今一つ出来が良くなかったのでな」
「分かりました。お引き受けいたします」
「頼むな。それから、今まで渡した教本はどうしておる?」
「あ、前のですか?」
 その問いに一瞬恵悟の顔が脳裏を過ぎった。しかしここで慌てては痛くも無い腹を探られる切っ掛けにもなりかねないので、努めて平静を装う。
「うちにしまってあります。時々読み返す事もありますけど」
「ふむ、そうか。今度の機会で良いから、わしのとこへ戻してくれぬか。新太のために少々手直しを入れようと思うておるのじゃ」
「分かりました。近い内にまとめて持って来ます」
 だけど、その内の一冊は恵悟に貸したままである。家の中どころか里の外にあるのだ。無論、そんな事は言えるはずもない。ばれたら僕だけの問題では済まない事なのだ。
 次からは自分の読んでいる教本と実際に読み終えた教本とをずらして報告しなければならないだろう。そういった計算をすぐに僕は始めた。