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 その晩も父はお酒を少し飲み早々と寝てしまった。僕にはちゃんと勉強しろとは言うのだけれど、口調がどこか話半分のようで芯が無く、僕もこんな状況ではとても集中して取り組む事なんか出来なかった。
 これから父はどうなってしまうのだろうか。初めはその不安だけだったのだが、今はもう一つ、看過できない不安がある。それは恵悟の事だ。
 恵悟がもしかするとあの石を悪い事に使っているんじゃないか、そう僕は思い始めている。証拠も何も無ければ、漠然とした小さな小さな不安でしかないのだけれど、一度気になってしまうとどうしても振り払う事が出来なかった。
 恵悟は今度、あの石を試験に使うかもしれない。落第してしまうよりはマシだからと、あっさり破ってしまう。そんな予感がする。そして恵悟はその事を僕には言わないだろう。だから僕には、恵悟が約束をきちんと守っているかどうかは分からない。恵悟は友達だから約束を破るはずはない、そう信じるしかないのだ。
 それだけならまだしも、まさか他の目的にも使ったりはしていないだろうか。たとえば、冗談でも口に出来ないような事にまで。
 友達なら、友達を疑うような事をしてはいけない。たとえ僕が疑っても、きっと恵悟はそう言うだろう。僕もその通りだと思う。見ていない所だからこそ、約束は守る。それが友達という繋がりだ。だが、それを実際に履行するのはとても難しいのだと、ようやく思い知らされている。
 僕は恵悟を疑いたくはなかった。友達を疑うのはいけないことだし、初めての友達を失う事にもなりかねない。それが何よりも僕は恐ろしい。恵悟がいない生活はとても考えられない。恵悟と一緒に遊ぶのは、今までの生活が灰色に見えるくらい楽しいのだ。どうしてそれを捨てられるだろうか。
 この気持ちをどうにかしないといけない。ただでさえ、父の事で頭の中が一杯になっているのだから、これ以上悩み事は抱えられない。
 何か良い方法はないのだろうか。全部丸く収まるような、都合の良い方法が。
 そんな事を考えながら何度か溜息をつき、やがて考える事を諦めた。これ以上同じ事を一人で考え込んでいても仕方がない。また明日考えた方が良さそうだ。そう結論付け、油が勿体ないので火を消し、今夜はもう寝てしまう事にした。悩んでいるから寝付けないかもしれないと思ったけれど、心配したよりもあっさりと眠りに落ちる事が出来た。
 翌朝、僕は長老に呼び出された。朝の早い内に長老の屋敷から使用人が来て応対した母に、朝食の後でいいから来るように、と伝えたそうだ。その際には必ず読み終えた教本を持って来るように、との事だという。以前長老が、次のために教本を読み直して手を入れておきたいと言っていたから、多分それの事なのだろう。
 長老の所へ寄ると秘密基地へ着くのが遅くなってしまう。僕は朝食を早目に食べると、急いで長老の屋敷へと向かった。屋敷に着くと既に話が通っているので、いつものようにすんなりと中へ通された。通された先は前と同じ火燵のある部屋で、火を入れて大分経っているのか十分に温まっていた。炬燵で足を温めていると程なくして長老はやってきた。僕は一言挨拶をするだけでちゃんと顔を見る事が出来なかった。案の定、長老と話をしようとすると父の顔が頭を過ぎってしまうからだ。
「どうじゃ、勉強は捗っておるか?」
「はい、その、まあまあです」
「まあまあと言うことは、あまり進んでおらんようじゃな」
「すみません……」
「小五郎がああでは、仕方なかろうな。勘弁せい、これも里の掟じゃからの」
「い、いえ、とんでもありません」
 分かっている癖に訊ねたのか。そんな反抗的な言葉が危うく口から出そうになる。僕は子供ながらにも、父の事だけでなく長老の事も分かっているつもりではある。元々の掟を作ったのは今の長老ではないし、その掟を変える事は今の長老でも簡単ではない。掟に従わなければ里が乱れてしまう、そういう理由での事だ。しかし、感情だけはどうしようもない。仕方の無い事だと納得しているはずが、どうしても長老を諸悪の根源にしようとしてしまう。これは僕が子供だからそうなってしまうのだろうか。
「ところで、小太郎。お前はいつもどこで遊んでおるのじゃ? 里にはおらぬようじゃが」
「大体は山の方へ出ています。その日によって場所は違いますが、一日中回って歩いたりしてます」
「ふむ、そうか。一人でか?」
「そうですけど」
「それではつまらんのではないか? 一人で遊んで面白い事もあるまい」
「とは言っても、里には僕ぐらいの歳の子供はいませんから」
「少しくらい離れてても良いのではないか?」
「年上だと気を使いますし、年下でもまた気を使わないといけないですから。かえって一人の方が気楽です」
「そうか。わしの子供の頃は沢山同い年生まれがいたんじゃが。これも時代の流れというものかのう」
 目を細めながらしみじみと語る長老に、そうですか、と曖昧な相槌を打つ。何となく長話になりそうな雰囲気だと思った。たまに話し相手を見つけて捕まえるのが長老の癖らしいが、最近はあの事件のせいで里がぴりぴりしているから、そういう相手がずっといなかったのだろう。それは仕方ないにしても、長老と僕とでは倍どころではなく歳が離れている。話なんて大して続く訳もないから早く解放して欲しいものだ、そう思った。
 その時、早く解放して貰うのならば話し難い話題を持ち込めばいいのではないかと僕は考えた。それならば丁度長老に聞きたい嫌な質問がある。答えが聞けようがはぐらかされようが早々に帰れるはず。僕は思い切って自分から話を振った。
「あの、長老。訊きたい事があるのですが」
「ふむ、何じゃ?」
「僕の父の事です」
 直後に長老の表情を窺ってみたが、意外にもさして抑揚の無い無表情のままだった。眉の一つくらい顰めると思っていたのだけれど。年を取ったから簡単には動揺はしないのだろうか。
「僕の父はどうなるのでしょうか。父は無実のはずですし、しばらく家に謹慎したら元通りの生活に戻ると思っているんですけど」
「ほう、お主は小五郎からは何も聞かされていないのか」
「長老から沙汰が出るまでは家に隠らなければならない、とまでは聞いてます。僕が知りたいのはその後の事です。長老は父をどのようにするおつもりなのでしょうか?」
「どんな罰が課せられるか知りたいと?」
 そこで僕は一瞬息を飲む。罰があるのかどうかはっきりしない段階だというのに、その言い草ではまるで父に罰が与えられる事は既に決定しているようではないか。思わぬ返答に僕は焦ってしまう。
「どうして罰を受けなければならないんですか? それも僕の父だけが」
「それも聞いておるはずだぞ、小五郎から」
「僕は知りません。ただ、そうなるかもとだけ」
「小太郎、お主は何が言いたいのじゃ? まるでわしに食って掛かっているように思えるがの」
「いえ……すみませんでした。ただ、どうしても知りたくて」
 やはり言葉が過ぎてしまったようだ。僕は深々と頭を下げて謝った。長老は僕の無礼な態度に怒るかと背中に怖気を立たせた。しかし、あくまで長老は喜ぶも怒る事も無く、ただただ無表情無反応のままだった。それがまるで、僕がどんな事をするのか観察しているような気持ちにすらなった。長老からして見れば、僕のような十年も生きていない子供のする事など、さほど熱を上げるものでもないのだろう。
「あの、最後に一つだけ教えて下さい。それを聞いたら僕は帰りますから」
「構わんぞ、言ってみい」
「都会で起こった事件というのですが、本当の犯人が分かれば、父は罰を受けなくて済むのでしょうか?」
「そうじゃな。今の謹慎が明ければそれで終わりになろう」
「そうですか……ありがとうございました」
 僕はもう一度深々と頭を下げて一礼すると、うちから持って来た読み終えた教本を卓の上に置き、そのまま長老と目を合わさずにそそくさと部屋を後にした。まるで逃げるように屋敷を出、そのまま里の外へと足を走らせる。少しでも早く長老と距離を置きたい、そう僕は思った。父が助かる唯一の選択、それを真っ先に放棄したとしか思えない長老が抜け抜けと答えた事がとても許せなかったのだ。
 こんな思いをするくらいなら、初めから訊かなければ良かった。そう思う反面、一縷の望みのようなものが見えてきたとも思った。
 何とかして犯人を捕まえてみせたい。父の無実を証明したい。けれどそのためには、実に沢山の無理が重なっている。そもそも僕は、未だ都会で起こったという事件のあらましすら知らないのだ。
 本当に何か都合の良い方法は無いのだろうか。山道を全力で駆け抜けながら、冷たい冬の外気が気にならないほど体は熱くなっているのに、やけに冷静な僕の頭の中は何時になく空回りしていた。