BACK

 長老の屋敷から家に戻るまで、父とは一言も言葉を交わさなかった。僕はこれまで父に怒られた事があまり無かったけれど、悪い事をした時に父がどんな態度に出るかくらいは分かっている。普段温厚で優しい父でも、怒る時は人が変わったように怒るのだ。しかし今の父にはその様子が微塵も感じられず、不気味なほど物静かだ。それを嵐の前の静けさのように僕は思っていたのだけれど、何時まで経っても何も言わない父の様子に、今回は今までとは状況がまるで違うのだと実感する。
 家に着くと、僕はすぐに朝食を食べ終え裏の蔵へ足を運んだ。恵悟が帰ってくるまでしばらく日数がある、それまでに自分は何をどうするのかを練っておかなければならない。必要な資料は蔵の中で探して読んだ方が手っ取り早いのだが、それよりも一人になりたい両親と顔を合わせたくないという気持ちの方が強い。
 まずは父が集めた人間の雑誌をもう一度引っ張り出し、あの事件の特集の部分をもう一度読み直す事にした。
 やる事は極めて単純である。要は恵悟が決して術を悪用してなんかいない、都会で起きている事件とは無関係だ、それの証明があればいいのだ。一番理想的なのは、恵悟がそもそも物理的に事件を起こすなど不可能な事を証明することだ。しかしそれには、恵悟が都会にいる間に何時何処へ移動した等の足跡を正確に把握しなくてはいけない。外界の事など地名も満足に分からない僕には無理だ。
 そうなると必然的に次の手は、恵悟に如何にして問いただすか、になる。多分、少し前までの僕なら素直に訊ねただろう。そして期待した通りの返答を恵悟から貰い、安堵する。だけど、今は違う。長老の言葉をそのままに受け取るならば、恵悟は僕に嘘をつくかもしれないのだ。恵悟がやっていないと言ったのだから、では通用しない。何かしら信頼性のあるような言葉を恵悟から引き出さなくてはならない。それが、僕に与えられた最後の機会だ。
 恵悟の無実を証明し、術も引き続き悪用しない、術の教本はもう貸せない。着地点はそんな所になるだろう。全て丸く収まる理想的な形だ。そして恵悟の次は僕自身だ。掟を破って人間である恵悟と仲良くしただけでなく、一族の術まで渡したのだから、何かしらの罰は免れないだろう。ただ、長老は物騒な事を言っていたけれど、最悪でも片眉を剃り落とされるとか、その程度になると思う。さすがに入れ墨まではないはず。そんな事よりも、以降は恵悟と会えなくなるだろう。何か分かられないような連絡の取り方を考えておかなくてはいけない。
 父が集めたあの雑誌は意外なほど多く、別の棚やその隅にもまだ平積みになっているものがあった。表紙に書かれた題目も様々あり、どうやらあの事件の事を少しでも触れた雑誌は全て集めたようである。僕はこれらの雑誌を何冊か読んだ後、いちいち開いたり閉じたりをするのが面倒になり、必要そうな所を切り離してまとめることにした。これを別の冊子か何かにまとめておけば、恵悟に事情を話すにも随分手間が省けるのだ。
 しばらくそんな作業に没頭し続け、ふと空腹感を覚えた僕は一旦手を止めて蔵の外に出た。空を見上げると太陽が丁度真ん中辺りに昇ってきている。もう昼時になったらしい。家の方からは炊事の煙が立ち上っている。昼食も間もなくだろうが、それを家の中で待つか蔵の中で待つか、僕は迷った。蔵の中では父と母とどちらが呼びに来るのか分からないし、かと言って家の中ではどちらとも顔を合わせ難いのだ。
 そう決めかねていると、不意に家の方から戸を開ける音がした。誰か来たかと思っている内に姿を表したのは父だった。
「小太郎、そろそろ昼食だから入りなさい」
「ああ、うん。分かった」
 父は相変わらず表情に乏しく、何を考えているのか分からなかった。ただ悲壮感のようなものは消えていないから、少なくとも明るい事ではないと思う。ここ数日もずっと外出を禁じられ表情は暗かったが、今はそれにより拍車をかけている。
 家の中に入り二人で囲炉裏の火を囲む。母は台所に居て姿は無く、まだこちらに来る気配も無い。父と二人きりになるのは一番避けたい状況だった。僕のせいで一番迷惑を被ったのが父だから、僕はどんな態度でいるべきか非常に迷う。反省している真摯な態度が当たり前だとは思うけれど、それでは口数の少なくなった父とでは非常に空気が重くなってしまう。その空気の悪さが何よりも息苦しく思う。
「小太郎、お前はどうするつもりなんだ?」
 そんな中、おもむろに父の方から口を開いてきた。
「どうするって……。恵悟にちゃんと話すよ」
「話すって何を?」
「今日の事とか、あと事件の事とか。それに、僕の術を変な事に使ってないのかも訊く」
「それで、使ってたらどうするつもりだ?」
「どうするって、まだ使ったって決まってないよ」
「今から決めておかなきゃ、いざという時に困るんじゃないのか?」
「それはそうだけど……」
 心配するのならともかく、僕と恵悟の事についてまで口を挟まないで欲しいというのが正直な本音である。それと、例えでも恵悟が僕との約束を破った時の事など聞きたくはなかった。父は恵悟の事を知らないからそんな事が平気で言えるのだ、そう僕は思う。
「ねえ、長老はもしかしてずっと前から恵悟の事を知っていたの?」
「ああ、そうだ。それに、最初に長老に話したのも父さんだ」
「えっ?」
 意外な発言に僕は思わず声をあげてしまった。恵悟の事を知られたのは長老が最初だと思っていただけに、父がそんな形で関わっていたとは思いもよらなかった。
「何で父さんが恵悟の事を知ってたの?」
「はっきり知っていた訳じゃないさ。ただ、お前には悪いが、まさかそうではないかと疑っていた」
 疑っていた。その言葉の裏に、祖父の末路の事が言い含められている気がした。
「最初に変だなと思ったのは、お前に言葉遣いの事を注意した時だ。友達同士で敬語なんか使わない、そうお前は言った。いつも一人で遊んでいるお前が、友達同士なんて自然に口にするのはおかしいじゃないか。とは言っても、そんなのは物の弾み、ただの例えかも知れない。だから折を見て長老に申し立てたんだ。うちの息子は普段一人で何をしているのか、最近少し素行が不安だ、と」
 それで恵悟との事が長老の知る所になった。僕は少しばかり後悔をした。何故あの時にもっと迂闊な事を言わないよう注意出来なかったのか。後の祭りではあるけれど、そう悔やまずにはどうしてもいられなかった。
「あの人間の子供がお前と仲が良いのは分かる。けれどな、父さんも長老と同じ意見だ。人間は簡単に人を騙す。お前だって騙されているだけとしか思えないんだ。第一、あの子供はどういう理由でこんな山まで来たんだ? 熊撃ちでも山菜採りでもないのなら、普通の理由じゃないはずだ。お前と逢ったのだって、たまたまではないのかもしれない」
「そんな事、ちゃんと訊かなきゃ分からないじゃないか。最初から疑ってかかるなんておかしいよ」
「誰も保証はしてくれないんだぞ。人間がお前に嘘をつかないなんて。そうやって爺さんは騙されたんだ」
「そうだけど……」
 何も知らない父に恵悟を悪く言われるのは不愉快で仕方ない。しかしそれを真っ向から言えない僕は、せめてもの抗議とばかりにそれから口を閉ざした。もう何を言っても同じ事の繰り返しになりそうで、無為に苛立ちばかりが積もりそうな様相である。後は余計な事は言わない方が良い。
 これからは恵悟を疑ってかからなければいけないのに、自分からそれを否定するような事を言ってしまった。僕は、父に対して心にもない言葉を吐いた事に、僅かなりとも気が咎めた。恵悟を信用するのと疑うのとを、自分の中でうまく両立させるのは僕には難しかった。信用するのは友達だからで、疑うのは掟だからで、どちらも理由が違っているからうまく折り合いがつけられないのだ。