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 丁度、僕達の秘密基地の裏側にある切り立った高い崖。そこはこの山の麓まで流れる川の源流に近い場所だった。尾根伝いに周りながら昇って行くと、下から見下ろしただけでは想像がつかないほどの草木が生い茂っているのが見える。あまりに深いため、源流まで踏み入るのは山を歩き慣れた大人でも中々難しい。当然、僕も藪の中には入った事はない。
 今はまだ冬だけれど、この辺りにだけ生える多年草の一種は年中萎れる事が無く、緑の葉こそ付けてはいないものの枝や茎などは一面に生え揃っている。そのため、夏だから冬だからといった季節による歩き易さに差異はない。
「なんか一層山奥っぽい所だね。ジャングルみたい」
「こんな所には誰も近寄らないからね。足元に気をつけて。意外と枝や根っこに足を取られたりするから。ここで転ぶと危ないよ」
「危ない?」
「ここから先に行けば分かるよ」
 そこから更に進むと、生い茂っている草木の種類が僅かに変わる。元々膝ほどある草木の背丈が段々と高く伸び、最終的には僕の頭の上を越すほどまでになる。当然視界は遮られ、手で掻き分けながら歩かないととても前には進めない。
「凄い草だな。ススキかな? こんなでかいのが生えてるなんて、如何にも秘境って感じだね」
「都会にはこういうのは無いの? 公園って場所には植物が植えられてるって聞いたけど」
「公園にあるのは、もっと見た目綺麗なお花だよ。それも女子が好きそうな、小さくてけばけばしい奴さ」
「見て楽しむために植えてるんだ」
 確かに、こんな歩くのを邪魔するだけでしかないような藪を、わざわざ自分の生活圏に植える理由はない。やるなら綺麗な花の方が安らぐだろう。
 しばしそびえ立つ藪を分け入って進むと、やがて突然ぽっかりとそれが途切れる地点に抜け出た。そこからは地面が土よりも岩肌が露出している部分が多くなり、植物が生え難くなっているからだ。
「着いたよ。飛び出さないでね、危ないから」
「危ないって何が?」
「ほら、前見て」
 僕から僅かに遅れて藪を抜けて来た恵悟に、前方の風景を促す。そこは丁度、基地の近くを流れる小川へ続く滝の隣である。すぐ横に源流から来る流れの速い川があり、その水が崖から真下へ一直線に流れ落ちている。この滝の勢いで削られて出来たのが、あの小川と周辺に転がっている大小の石になるのだ。
「うわ、これは凄いな。なあ、もしうっかり入ったら、当然助からないよな?」
「試した事は無いけど、多分そうだと思うよ。水の流れなんて尋常じゃないし」
 そう言っていると、偶然にも川の上流から流されてきたらしい大きな石の固まりが僕達の前を滑るように通過していった。石はあっという間に滝の白い水しぶきに飲み込まれ、そのまま下へ落ちていったのか、それとも川底に引っ掛かったのか、分からなくなってしまった。
「なるほど、もしも落ちたらあんな風になるって訳だ」
「そうだね。ほら、それとあっちも見てよ」
 次に恵悟に促したのは、滝とは地続きになっている崖の先端。その切り立った面のある一角だけ、不自然に細長く先へ伸びていた。
「何あそこ?」
「この崖って滝で少しずつ削られて後退していってるそうなんだけど、あんな風に滝が当たらない所は取り残されて長く伸びちゃうんだ」
「川の水でもこんなに岩を削るもんなんだね。しかし、あの先端に立ったら怖いだろうな。先の方に行けば行くほど細くなっているみたいだし、親切な手摺りがある訳でもないし。ちょっとでもバランスを崩したら真っ逆様だもんな」
「だから連れて来たんだよ」
「は?」
「あれのどこまで先まで進めるのか、度胸試し」
 その時、恵悟の表情には明らかに不安の色が浮き出た。そんな危ない事をするのか、という心の声も聞こえてくる。この崖は僕でも滅多に近付かない、僕でも怖いと思う場所である。都会暮らしの恵悟が恐れないはずがないのだ。
「まあ別にいいけどさ。小太郎はどれぐらいまで行けるんだよ」
「半分よりちょっと前かな。流石に幅が狭まってくるとさ、なかなか前に進めなくなるんだ」
「なんだ、そんなもんか。じゃあ僕は半分よりもっと先まで行ってみせるよ」
 そう強気の発言を放つ恵悟だったが、その胸中からしてこれが単なる強がりである事は手に取るように分かった。半分にも満たないと言った僕のそれにでさえ、そんなに行けるのかと驚きを隠せないでいる。自分が実際に行けるのは、それよりももっと手前という目論見だったようだ。ただ、僕の前では退くに退けないのだろう。
「じゃあ先に行ってみてよ。今は風も吹いてないからさ」
「あ、ああ、分かったよ。とりあえず、最初だから練習な。足元も悪いし、練習して慣れてから本気でやるから」
 恵悟の心を覗くと、緊張と恐怖が一気に最高潮まで高まっているのが分かった。何が何でも半分を超えてやろうと躍起になっているが、余計な事を言ってしまったという後悔はないようである。単に過ぎた事を考える余裕が無いのか、それとも見栄っ張りなのか。そのどちらにしても、僕はこれを好都合だと思った。このまま自滅して足を踏み外してくれればありがたいし、そうでなくとも僕から意識がそれているのは都合が良いからだ。
「んじゃ行くからな。とにかく最初は練習だから」
「うん、分かってるって」
 あくまで練習だと念を押すのは、万が一途中で引き返してしまってもある程度格好が付くようにという保険だ。けれど、一度前に踏み出せばすぐにそんな事を考える余裕は無くなる。既にそれは自分で試している。この崖は、そもそも半分も歩けるような所ではないのだから。
 ゆっくり慎重に踏み出す恵悟。その後ろ姿に、もう一度心の中を覗いてみる。恵悟はまるで無防備で足元にしか意識が向いていない事が分かった。ちょっと後ろから背中を押されたら、あっさり転落する状況なのに。僕を信じきっているのか、足元の注意で精一杯か、どちらかだ。