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 その日、僕はいつもよりも早く里へ帰って来た。今日は、先日人間の町へ買い出しへ出掛けた大人達が戻って来る日で、長老の屋敷で慰労会が行われるからである。この日は普段食べられない御馳走が食べられるので、早めに行って自分の分を確保しておきたいのだ。
 夕暮れ時の里は一通りが多く昼間よりも騒がしいと感じるほどだった。行き交う人のほとんどが長老の屋敷へと向かっている。屋敷の方から炊事の煙が幾つも上っており、丁度今頃準備に追われているのだろう。
 僕は一旦家に戻り、山で採ってきた蕗と独活を半分置いて井戸で顔と手足を洗ってから長老の屋敷へと向かった。母屋の方はまだ準備が終わっていないらしく、外からでも分かるほど騒がしい雰囲気だった。どの道、僕のような子供は御飯を食べる以外の事はさせて貰えないので、中に入ってみようという気にはならなかった。そのまま裏手の炊事場の方へ回り、勝手口からそっと中へ入る。中では里の女の人が大勢集まっていて、今夜の御馳走の準備に奔走していた。
「あら、小太郎君じゃないかい? お母さんに用事?」
 そっと覗き込んだ僕の姿を見つけたのは、斜め向かいに住むおばさんだった。
「うん。さっき山でこれ採ってきたから、今夜食べるかなって思って」
「まあ随分立派な蕗じゃない。独活も食べ頃のようだし。そうそう、お母さんは今お膳の準備をしていると思うからここにはいないのよ」
「そうですか。用事はこれだけなんで、別に構いません」
「じゃあ頂いておくわ。今夜にみんなで食べましょう。それにしても、小太郎君は偉いわね。もうこんな気遣いが出来るなんて」
「いえ、そんな。大した事じゃありませんよ」
 炊事場を後にすると、今度は離れの方へ向かった。ここには大体準備に加わらないような人達が集まっていて、僕は毎回ここで用意が終わるまでの時間を潰している。下手に母屋の方へ行った所で、準備の邪魔だと邪険にされるのが落ちなのだ。
 離れには僕よりも小さな子供が数人と、老人達がお茶を飲んだり碁を打ったりしていた。子供達はこれから美味しいものが食べられると分かっているので、実に元気にはしゃいでいた。いつもとは違うこの雰囲気に心躍らされるのもあるだろう。
 縁側の隅に座り、僕も自分でお茶を入れて飲みながら始まるのを待った。今日は良い山菜を採るために少し深い所まで入ったから、足の裏がじんわりと痛んでいる。足もかなりだるくて熱っぽい。こういう時は御飯を食べたら早めに帰って寝るのに限る。食べたいものを食べたら、すぐ退散する事にしよう。
 しばらくして、ふと湯呑みが空になっている事に気付き、新しく入れようと立ち上がった時だった。
「よう小太郎、久しぶり。元気だったか?」
 唐突に現れたのは惣兄ちゃんだった。
「惣兄ちゃん、どうしたのこんな所で? 準備とかあるんじゃないの?」
「ああ、今買い出し組は長老の話が終わった所。それで俺だけ抜け出してきちゃった。おじさんには内緒だぞ」
 そう肩をすくめながら笑う惣兄ちゃん。
「うちのお父さんはいいけど、長老には見つかるんじゃないの? 前に言ってたじゃない。長老は千里眼だって」
「そうそう、それなんだけそさ。実は地獄耳らしいよ。だからこっそりでも、同じ話繰り返すなとか話がくどいとか、そういう事は言わない方がいいぞ」
「僕はそんな事は思ったこともないもん」
 そして僕は惣兄ちゃんと並んで座りながら、新しく入れたお茶を飲んだ。考えてみたら、惣兄ちゃんと話すのは本当に久しぶりの事だと思う。普段は外で遊んでいてあまり里にいないから、顔を合わす機会も無かったのだ。
「町に行った時に聞いたんだけどさ、天皇はまたお加減が思わしくないそうだ。近い内に人間の所は騒がしくなるだろうなあ」
「どうして騒がしくなるの?」
「何やら色々と一筋縄じゃ行かない事が出て来るんだと。あまり良く分からないけどさ、年号が変わるだけでもかなり混乱するらしいぞ。銀行だとか、暦だとか」
「ふうん、そんなものなんだね」
 人間の年号や暦は生活に密に関わっている訳でもなく、僕にはそれがどんなに大きな混乱なのかは今一つ把握出来なかった。馴染みが無いというのなら、僕らにはあまり関係の無い話である。それ以上の興味はわいては来ない。
 すると、
「なんかさ、少し変わったな。小太郎は」
 惣兄ちゃんは不意にそんな問いを投げ掛けてきた。
「そうかな? 術の勉強してるぐらいだけど」
「そうじゃなくてさ。前はもっと、人間の町の事については何でも聞きたがってたじゃないか。それが急に興味が無くなったみたいだ」
「別に何でも知りたい訳じゃないよ。それに、子供に説明するのは難しいって、いつも惣兄ちゃんが渋ったじゃないか」
「そうだったか? まあ、別に何も変わりないのならいいんだけどさ」
 頭を掻きながらお茶をすする惣兄ちゃん。そんなに僕の様子が気になったのだろうか、と何時に無く妙な事を言ってきたことに小首を傾げる。
 それからしばらく他愛のない会話を交わした。里には僕と歳の近い子供はいないのだけれど、不思議と一回り近く歳の違う惣兄ちゃんとは話が合った。単に惣兄ちゃんの方が僕に話を合わせてくれているだけかもしれないが、何にせよ次から次と話したい事が溢れて来るのは二人での会話が楽しいからに他ならない。気がつけば自分ばかり話していた事から鑑みるに、僕は普段から誰かに話したくてたまらないような事を沢山溜め込んでいるようだ。
 やがて惣兄ちゃんは湯呑みの中を飲み干して縁側に置くと、草履を履き直して立ち上がり、ぐっと背伸びを一つした。
「さて、ぼちぼち戻るとするかな。抜け出したのがばれると怒られるからね」
「うん、それじゃあまた後で」
「後でな。いつもの席にさり気なく美味そうな大皿は寄せておくから、遅れないで来いよ」
「分かってる。ありがとう」