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 思い返せば、人間の書物の類を読むのは久しぶりの事である。家の倉にあった雑誌を読んだ時は、どうしてこんな事が出来るのかと気分が悪くなったほどだ。恵悟の事もあって、以来読む事にはどこか抵抗がある。けれど、そこに躍る村上某の字はどうしても見過ごせず、僕は意を決して文面へ目を落とした。
 その新聞は、この辺りで起こった出来事を中心に扱っている、地方紙と呼ばれるものだった。日付は今から少し前の冬が終わりかけていた時期で、日に当たる場所に乱雑に置かれていたのか端がやや変色している。記事について誌面の割方を見ると、よほど重大な出来事だったのか、他に比べて随分と大きく枠が取られていた。
 事件の経過はこうだった。
 都会より静養に訪れている村上某氏の長男が、昨日出掛けたきりに帰って来ず行方が分からなくなっていた。村上某氏が資産家という事もあって誘拐の可能性も視野に入れ、地元警察及び青年団による大規模な捜索が行われる。しかし捜索の当日は何も進展が無かった。状況が動いたのは翌日二日目の事だった。長男は町外れの廃屋にて発見された。重傷の上著しく衰弱しており意識も無く、直ちに病院へと搬送、現在も治療中であるがまだ意識は戻っていない。怪我は右半身を中心に骨折や擦過傷が多く広がり、頚椎にも深刻な損傷が見込まれている。現時点で犯行声明と思われるものは出ておらず、何者かによる通り魔的な暴行を受けたか、何らかの事故に巻き込まれた可能性が高い、というのが警察の公式見解となっている。
 新聞は大人向けの文章だけに、僕には噛み砕いて内容を理解するのに酷く時間がかかった。何とか読み取れたのは、村上という人が行方不明になり酷い怪我を負った状態で見つかったという事だ。名前は村上某としか出ていないものの、時期的にはまさに恵悟が居た頃と一致している。恵悟の苗字は村上、都会から静養で来ている事も踏まえて、この重傷を負って見つかった長男とは恵悟である可能性が高いのだ。
 とにかく酷い怪我を負っているという事だけれど、僕は少しだけ安堵を覚えてしまった。恵悟がいなくなったのは、単にその怪我のせいで連絡も出来ずに来られなくなったせいだからと知ったからだ。
 その安堵が何になるのだろうか。既に気持ちの整理はつけて恵悟を見限っているというのに。自分が見捨てられた訳ではないからと知って喜ぶなど、なんて情けないのだろうか。あれだけ自分に言い聞かせたというのに、まだすがる思いが残っているとは。
 自分の立ち位置が少し揺らいだ事に慌てて、今一度距離感というものを確認する。もうあれは過去の事で、今の自分は元々の生活に戻っているのだ。ほんの一時期の異常をいつまでも引き摺る訳にはいかない。
 しかし、過去の経緯を全く抜きにしていても、僕にはこの事件は疑問だった。本当にこれが恵悟だとしたら、あまりに状況が不自然としか思えないのだ。
 あの日恵悟は僕と一緒に別れて山を降りたはずである。怪我をしたのであれば、その直後から翌日にかけてだろう。この廃屋に行く用事でもない限り、事故という線は薄い。恵悟の帰り道に、こんな大怪我をする場所は思い当たらないのだ。だから、誰かが誘拐して廃屋に移したのだと思う。
 ただそれには、誰が何のためにこんな事を、という疑問が出て来る。子供同士の小突き合いならともかく、子供にこんな手の込んだ手口を使ってまで大怪我を負わせるなんて尋常では無い事だ。でも、本当にそれは尋常ではない事だろうか? 人間は僕達一族とは違い、そういう事を平然とやれる。恵悟にしても、僕に嘘をついてあんな事件を起こしていたのだ。些細でも理由さえあればどんな事も出来る、それが僕達一族と人間との決定的な違いだ。
 これも胸糞が悪くなるような人間の所業なのだろう。そう初めは思った。気に入らない人を殺すためだけに創意工夫をこらすなど、熱意の無駄遣い、非生産的な徒労でしかない。だけど、ふとあの言葉が引っ掛かった。理由があれば何でも出来るのは、僕達一族も同じではないだろうか、と。
 かつて長老は僕に言った。術を盗んだ人間は殺す、そう昔から決まっている、と。そう、僕達一族でも、大人なら理由があれば人間と同じ事が出来るかもしれない。
 誘拐でもなければ、事故にしても状況が不自然だ。となると後は消去法で誰かの復讐という線が残ってくる。けれど、恵悟は一体誰から恨まれるのだろうか。恵悟がしてきた事は許されない事だけれど、全て誰にも知られないようにやったのであれば、恵悟に対して恨みが向けられる事はないはず。麓の町に、恵悟に対してここまでする恨みを持った人間がいれば別だが、それと思い当たるような話も聞いたことはない。
 恵悟を恨む人間が本当にいるのだろうか?
 そう考えた時、僕は別な可能性に気がつき息を飲んだ。恵悟に恨みを持つのは、必ずしも人間だけではないのだ。そしてその理由も、必ずしも恨みだけでとは限らない。
 あの日、夕暮れ時に僕が里へ帰って来た時、長老は突然里の外へ出掛けていった。前もって予定していたのではなく、まるでその日にふと思い立ったように出掛けて行ったのだ。長老には理由がある。掟に厳格に従おうとする事と、掟に従えなかった僕を知っての危機感だ。
 待て、そんな馬鹿な事があるはずがない。あまりにも軽弾みな考え、根拠もない暴論だ。自分にそう言い聞かせて冷静さを促し、今の考えを何度も整理し片っ端から検証をしていく。けれど、僕の頭ではどう考えても辻褄が合ってしまう。実際これなら一番自然だとしか思えないのだ。
 この事件、もしかすると犯人は―――。