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 僕は疲れているのを理由にして、その晩の宴会は早々に引き上げて先に一人家に帰った。滅多に食べられない蟹もあったけれど、不思議と食べたい気持ちはわかなかった。疲れているというのも嘘だけれど、そんな僕の姿を周りから見ればもっともらしく見えるだろう。
 ほとんどの人が長老の屋敷に集まっているから、里の中は耳鳴りがするほど静まり返っていた。その夜道を色々と考え事をしながら一人歩く。ただ座っているよりも歩きながらの方が考えはまとまりやすかった。多分頭が回るせいなんだと思う。だけど気分がどこか憂鬱なせいで、気は晴々としない。
 惣兄ちゃんが持って来たチョコレートの包み紙に使われていた新聞の記事、それに載っていた子供は多分恵悟の事だと思う。急に来なくなったのと大体時期が重なっている。問題なのは、恵悟は本当に事故に遭ったのだろうか、という点だ。そこだけがどうしても納得いかない。
 僕は僅かにだけれど確信を持って疑っていた。恵悟はあの日、僕と別れた後に誰かに襲われて大怪我をしたんだと。そして、それをやったのは、長老か僕の父だ。あの日、二人は内々に外へ出掛けていった。それについて訊ねても、父は答えをはぐらかしていた。これは疑うなと言う方に無理がある。
 家に帰ると、そのまますぐ布団に包まり眠った。何となくの理由で苛立っている時は寝るのが一番良いからだ。眠る事は出来たけれど眠りは浅く、それから何度も目を覚ました。夢も少しだけ見たと思う。けれど、どれも一瞬の事ばかりで、さほど記憶には残らなかった。
 眠ったり目を覚ましたりを繰り返し、夜中になった頃に騒がしい足音を立てながら父と母が帰って来た。いつも最後まで残っている父が帰って来たという事は、今日の宴会は終わったようである。
「おーい、小太郎。家が暗いぞ」
「静かにして下さい。小太郎はもう寝ているんですよ。疲れたと言ってましたから」
「だったら、蟹貰って来たから食べてから寝た方がいいぞ。うまいし疲れも取れる」
 相変わらず、酔っている時は自分の事ばかり主張する。何となく溜息をつきたくなったが、少し寝て気分が落ち着いたせいか急に何か食べたくなり、蟹があるのならと僕はのそのそと布団からはい出た。
「なんだ起きてるじゃないか」
「うるさくて目が覚めちゃったんだよ。それより、蟹あるの?」
「おう、あるぞあるぞ。よし、軽く火を通し直そう」
 上機嫌で父は囲炉裏に火を入れる。夜中だし油はもったいないので他に明かりはつけなかった。囲炉裏の火だけでは薄暗いが、何か細かいことをする訳でもないから十分事足りる。
 貰って来た蟹の身を鉄鍋で軽く茹で、醤油を少しかけて食べる。茹で直した蟹は火が通り過ぎていて少し身がだれていたけれど、それでも十分においしかった。山ではせいぜい沢蟹くらいしか食べられないから、海の大きな蟹の身は何よりもごちそうである。
 父はいつもの湯呑みで蟹と山椒味噌を肴に飲み直し始めた。今まで飲んでいて、まだ飲み足りないらしい。きっと明日の朝は頭が痛いとかでまた苦しむのだろう。何度も繰り返していながらそれでも飲む父に、僕は苦笑いする。
「あら、上着はどこに置いたの? 見当たらないわ」
「あれえ、そこに無いか? 暑いから着てこなかったんだけどな」
「きっと長老の屋敷へ忘れてきたのね。もう」
 さも可笑しそうに笑う父。母はそんな父の背中を一つ叩くと、上着を取りに長老の屋敷へ出て行った。父が取りに行けば良いのだけれど、ここまで酔っていると途中で眠り込んでしまう危険があるのだ。
 しばらく飲み続けた父がより機嫌が良くなった頃を見計らい、僕はおもむろに訊ねた。
「ねえ、父さん。訊きたい事があるんだけど」
「んん、何だ?」
「恵悟はどうして来なくなったんだろう?」
 訊ねた直後、薄暗くてはっきりと表情は見えなかったけれど、父は顔が硬直し息を飲んでいた。僅かだけれど、明らかに動揺したのである。
 それは果たしてどんな動揺なのだろうか。僕が過ぎた事をほじくり返すと思わなかったからか、それとも。
「何だ、急に」
「少し気になっただけ」
「少し、か。まあ往々にして人間ってのはそういう奴なのさ。義理も人情もねえ。頭にあるのは、金やら名誉やらそんなものばかりだ」
 人間はみんな悪いからそうなって当たり前だ。僕にそう思わせたいような印象の解答である。それが、恵悟から視線をそらさせようとしているように思うのは、僕の邪推だろうか。
「もう一つ訊いてもいい?」
「何だ」
「父さんは恵悟の事をどう思ってた?」
「どうって、何を」
「好きとか嫌いとか」
 憎いとか殺したいとか。そう続けたかったけれど、流石に飲み込んだ。せっかく状況も落ち着いて来て家の雰囲気が良くなったのだから、あまり刺激的な言葉は使いたくない。
「人間は嫌いだ。お前だけじゃない、祖父様もそうだ。人間には傷つけられてばっかりだからな。まあ、人間の作る酒と腹痛の薬は好きだけどな」
「そう」
「何かしたのか?」
「ううん、別に。何となく気になっただけ」
 そうか、と答え父はそれ以上は何も言わなかった。自分もあまり深く突っ込みたくない、という意志表示にも見て取れた。やはり僕は悪い事を訊いてしまったと唇を噛む。でも、これはどうしても必要だった。父が恵悟をどんな風に思っているかはさして重要ではない。知りたかったのは、僕が恵悟の名前を口にした時にどんな反応をするか、だ。
「あ、お前もう蟹全部食べたのかよ。ちょっと小腹空いたな。何か食べるものあったか?」
 父はきょろきょろと周囲を見渡し肴になりそうなものを探す。立ち上がらないのは、それも面倒なほど酔っているせいだ。
 僕は昼間に貰ったチョコレートの事を思い出し、茶箪笥に入れておいた包みを取り出した。
「これ、食べていいよ。長老から貰ったんだ。人間のお菓子も美味しいよ」
「ほう、いいのか? お前が貰ったんだろ?」
「いいよ。僕はもう、要らないから」
 父は嬉しそうに包み紙を破り、中のチョコレートを取り出してかじった。前に牛の血で出来ているお菓子があるとか言っていたけれど、実物は食べた事がなかったのだろう、何の疑いもなく美味しそうに食べている。
 それがそのお菓子だよと言ってみたかったけれど、どうせ明日の朝になれば忘れているだろうから、今は言わない事にした。