BACK

 その日はいつものように朝食を食べた後、里の外へと出掛けていった。向かう先は、川の源流近くの切り立った崖の上。ここへ最後に恵悟が来た時に一緒に遊んだ場所である。
 今日も滝は大きな音を立てながら勢い良く流れていて、周囲にきらきらと光る水しぶきを上げている。水を一口すくって飲むと、まだこの季節には辛いと思うほどよく冷え切っていた。流石に魚影は見当たらなかったけれど、もう間もなく此処は恰好の釣り場となるだろう。
 そんな上流の景色の中、河原の一画には僕と恵悟が作った秘密危地の残骸が残っていた。屋根や壁は崩れて基地としての体裁は無く、岩を削って作った暖炉だけが今も残っている。しかし所々に泥がこびりつき、火を入れていた当時の頼もしさは面影も無い。
 手入れするのを止めてどれくらいになるだろうか。恵悟が戻って来た時のためにと続けていたはずなのだけれど、今では此処に足を運ぶ事すら億劫がっていた。
 河原から更に道を周り藪の深い坂を登り切ると、あの大滝が落ち始めるのと同じ高さへ着いた。滝の音を頼りに断崖の方へと進み、そこから滝の落ちる場所を見下ろした。久しぶりに見た高さに、一旦気が遠くなりそうになる。髪を揺らすくらいの勢いしか無いと思っていたそよ風さえも、此処に登ると足元から持って行くような野分のように思える。
 遥か下へ流れ込んでいく、源流近くの川の流れ。そこからすぐ近くに、あの崖はあった。
 僕は一呼吸置いた後、ゆっくりと崖の先端を目指して進む。風も鳥の鳴き声も藪蚊の羽音も、本来なら足元を乱すには到底及ばない何でもないものである。僕はゆっくり平素の息を続けながら、遂には崖の先端へ辿り着いた。そこから眼下を見下ろすと、僕達が作った秘密基地の残骸が遥か下で小さく見えた。普通に考えて、飛び降りたら間違い無く助からないような高さである。
 此処から恵悟は落ちたのだ。そう思うと、不思議と奥歯をぎりりと噛みたくなる衝動に駆られた。
 一度は僕が居たから助けられたけれど、どうして同じ日にもう一度落ちたのだろうか。まさか、恵悟はそんなにも僕に助けられた事が悔しかったのだろうか。
 僕達の間に明確な上下は無かったはずだ。歳は少し違っていたけれど、友達なら関係は無い。なのに悔しいと思ったのは、恵悟はどうあっても僕を下に置きたかったからなのか。
 直接恵悟と話をしなければ、事実は分からないと思う。けれど、仮に直に訊ねたとしても恵悟が果たして本音を言ってくれるのかは分からない。それに、そもそも今の恵悟は話すら出来ない状態だ。
 機会を見て、思い切って麓の町まで降りて行ってみようか。病院なら捜せばすぐ見つかるだろうし、入院している子供なら少ないはずだ。恵悟と話せるかは分からないし、また掟を破ったと罰は受けるだろうけれど、このまま鬱屈としているよりはずっと進歩がある。たとえ大怪我をして意識が戻っていない恵悟でも、その顔を見れば何かしら晴れる思いはあるかもしれない。
 恵悟を誰にも知られず密かに見舞う自分の姿を想像し、ほんの少しだけそれが友達らしい事だと思った。友達が辛い時には一も二も無く助ける、それが友達同士の情け、友情である。恵悟との仲は今ひとつ冷え切ってぎくしゃくとしてはいるけれど、これを期にもう一度やり直して今度こそ理想的な友人関係を目指したいと思う。かろうじて恵悟は一命は取り留めたのが不幸中の幸いと言った所だろうか。
 ふと、僕は思った。普通に考えれば長老は恵悟を大怪我で済ますのではなく、しっかりと確実に殺すはずなのだ。長老は自分の口でそうと言っていたのだ、殺さない程度で済ませる理由は無い。それでも命だけは助けたのは、一体どんな理由からなのだろうか。存在自体を隠している僕ら一族なのだから、むしろ殺さない方が危険な場合もある。
 何故恵悟は掟にそぐわず大怪我で済んだのか。まさか本当に、恵悟は事故だったのだろうか? だけど、その現場に居合わあせたのなら、わざわざ人間の町まで運んでやる理由はないはず。やはり長老は恵悟をどうこうするつもりが初めから無かったのか?
 そう信じたいと思う反面、どうしても僕は長老の言葉が信用出来なかった。事故というどうしようもない理由で事実を隠し、僕をうまく丸め込んでいるのではと、どうしても疑ってしまう。
 今まで、これほど誰かを疑った事はあっただろうか? 言葉だけでなく、身振り手振りまでを執拗に。
 今朝の長老の悲しげな言葉が頭の隅を過ぎった。つまりこれが、僕が変わってしまった、という事なのだろう。
 僕が変わってしまった事で、長老は心を痛めている。そしてそれはきっと、両親も同じに違いない。だから、今の僕に出来る事は、上っ面の日々の生活様式だけではなく、自分の中身まで何もかもを元通りに戻す事だ。遊び場から物事の考え方、価値観まで、一切合切何もかもを。