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 恵悟が居なくなってから、四回目の春が来た。いなくなる前の恵悟と同じぐらいの歳になったと思いつつ、あれから未だに引きずっている事を我ながら女々しい気がした。それでも以前のように、怪我が治ればまたきっと来てくれるとか考えないようになっただけでも十分な進歩だろう。
 あの頃から比べると、自分の生活も随分変わっていった。毎日のように里の外へ出て山遊びする事は無くなり、今は時折山菜や野草を取りに出掛ける程度になった。一日の半分は家の蔵で蔵書を読んで過ごし、たまに力仕事などを手伝ったりした。長老から与えられた教本は全て読み終わり、今は御先祖様の残した術を紐解いて書き直したりしている。徐々にではあるけれど、恵悟の事など忘れてしまった方が良い、と言われた事が正しかったのだと受け入れられるようになってきた。自分ではどうにもならない事をいつまでもくよくよと思い悩むのは、自分にとってどれだけ良くないことなのかを自覚まで出来る。あれはただの落ち込みではない、自分を何も出来ない用にする呪詛のようなものだ。悪いものに対する未練は持つべきではないのだ。
 生活は変わったけれど、それについて特にこれと言った不満は無い。昔なら蔵書と睨めっこをして過ごすなんて退屈で仕方が無かったけれど、今はそれが何よりも楽しいと思っている。だからこそ、あの時の僕は恵悟のために信じられないほどの力を振り絞っていたのだと、そう思った。それだけに、はっきりとしない終わり方になってしまったのが残念である。
「あ、やっぱり此処か。良かった」
 その日は、特にする事も無かったので朝から蔵に篭って蔵書を読んでいた。最近、書体の違う妙に古めかしいものを見つけたので、そればかりを片っ端から読んでいる。そんな最中だった、突然蔵の表に惣兄ちゃんがやって来た。
「どうかしたの?」
「急いで長老の屋敷へ来てくれ。おじさんが大変なんだ」
「父さんが?」
 惣兄ちゃんと連れ立って長老の屋敷へと急ぐ。通された先の母屋の縁側に父の姿はあった。顔を苦痛に歪め、半分体を起こした不自然な姿勢のまま、やたら高く右足を持ち上げている。
「父さん、何があったの?」
「おう、いや、な。屋根の修理をしてたら、つい足が滑ってしまってさ」
「それでこの様という訳よ。小五郎や、その足は折れておるな」
 転がったまま苦悶の表情浮かべる隣で、そう長老は少し困った顔で溜息をついた。
 昨日、長老の屋敷の母屋に雨漏りが見つかり、それを今日修理をする予定だった。それは最初僕に回ってきた仕事だったのだけれど、父が横から長老の屋敷の修理など子供には任せられないと言って、強引に自分が引き受けてしまったのである。
「だから、高い所の仕事は僕に任せろって言ったじゃないか」
「俺はまだそんな年寄りじゃないぞ」
「そんな年寄りだからこうなったんじゃないか、まったく」
 溜息をつく僕に更に言い返そうとするものの、自分の声が足に響いたらしく、裏返った声を上げる父。骨を折ったのが悔しいという様子だけれど、無理をした自分のせいなのだからいかんともしがたい。ともかく、足が折れただけで済んで良かったと思う。屋根から落ちるなんて、腰を打てば一生立ち上がれなくなるし、頭を打てばそのまま死んでしまう事だってあるからだ。
「やはり五郎太のようにはうまくいかぬか。あやつなら、あの木の上から落ちても、音もなく立ったもんじゃが」
「うちの御先祖様は特別だったんですって。あ、いててて。なんか段々痛みが酷くなってきた。医者はまだ来ないのか?」
 父の右足は目に見えて赤黒く腫れ出してきている。骨だけでなく、中の方でも内出血が酷いのだろう。素人目にも、治るまではしばらくかかるように見える。むしろ、目立った怪我がここだけという方が奇跡に近いのかもしれない。
「お、おい、小太郎。酒は持って来てないのか? こういう時の痛み止めだ」
「ないよ、そんなのは。父さんが飲むのは、裏のおばあさんが煎じた特製の薬湯じゃないかな」
 小さな頃に食あたりを起こして嘔吐が止まらなくなり、その時に一度だけ薬湯を飲んだ事がある。しかしあれは、その後三日は味が残るほど強烈なものだった。一晩でぴたりと治りはしたものの、もう一度飲めとなれば大人でも躊躇うような代物だ。
「しかし、困ったのう。次の買い出しは明後日ぞ? その足では歩けんだろうし」
「面目ありません……あ、そうだ。長老、もし宜しければ小太郎を代わりに行かせて貰えませんか?」
 突然の父の提案に驚き声を上げる。どうしてそんな脈絡もない話になるのだと叫びたかった。けれどそれよりも先に、
「なるほどのう。歳は若いが、親父よりは落ち着いていて慎重に振る舞うだろうし、何とかなるじゃろう」
「俺がちゃんと面倒見ますから心配ないですよ。心得から全部きっちりと仕込みます」
「うむ、そうじゃな。頼むぞ惣太」
 長老ばかりか惣兄ちゃんまでもが父の提案に乗り出してきた。
 どうにもただの悪ふざけではない、真剣味を帯びた話になってしまっている。三人ともすっかりやる気で、年下の僕ではとても断る訳にはいかなかった。引き受ける以外に余地は無いようである。だけど、惣兄ちゃんはともかく、長老と父は本当にその提案は良いのか、僕には引っかかるものがあった。僕にはとても昔の事に思えるけれど、大人にとっては最近の事のように思っているはずである。まさか、あれだけの事を忘れてしまったはずはないだろう。
「なんだ、不安か? まあ、何事も経験じゃぞ。お主も度胸をつけんとな」
「は、はい……頑張ります」
 本当に良いのだろうか? 僕は、掟を破った上に麓の人間の子供と仲良くしていたというのに。なのに、あえて人間の町へ行かせようというのだろうか?
 未だに長老の真意という物は読み切れないものがある。きっと僕は試されているのだろうけれど、一体どういう意図を持って何を試しているのか、その不透明さが何となく不気味だった。