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 出発当日の朝、僕は予定の時間より少し遅れて家を出た。出掛けに、ようやく骨折の腫れが引いたばかりの父からしつこいほど忠告を受けて足止めされたせいである。そのため、出だしからややげんなりした気分で長老の屋敷へ向かう事になった。
 屋敷の中庭に集まった買い出しに出掛ける頭数は、僕を含めて八人。今回は特に油や布などの嵩張る物の買い出しが多く、また専門の業者に卸す薬草や山菜なども多く持ち出すからだ。春先と年の瀬前は、こういったものが高く売れるそうだ。僕ら一族は人間の物がとても貴重に見えるけれど、人間にすれば僕らが当たり前に採っている物が貴重に見えるのだろう。
 出発前に、各人荷物の役割を決められる。一番年下の僕は山菜の詰まった篭を一つ背負わされた。それは採り立てでまだ乾燥させておらず、見た目以上に重かった。帰りも同じ篭を背負うため、おそらくまた同じくらい重い荷物を背負う事になりそうだ。
 里の皆に見送られながら里を出、林を抜けて山道に入り、麓を目指して降りて行く。よく山で遊んでいた僕は、そのほとんどが見覚えのある道ばかりだった。けれど、かつて恵悟と待ち合わせていた原っぱを通り過ぎて更に下ると、そこからは見た事の無い景色となり、自然と周囲を物珍しく見回した。嫌でも、これがいつも恵悟が見ていた景色なのだと、意識せざるを得なかった。それを気付かれぬよう、僕は極力前方だけを見ている事を意識した。
 山の麓までやって来ると、そこは僕達の里のように周囲の木々が広く切り拓かれ、大きな石の建物が幾つも並んでいる。足元は茶色の土が固く固められ、普段歩いている所とは比べ物にならないほど歩きやすかった。人間の書物は少し読んでいたから、知識ではどれが何だとある程度分かるのだけれど、実物を目の当たりにして受ける衝撃は想像以上だった。
「町までは此処からもう少し先だよ。この調子なら、昼までには着くんじゃないかな」
「此処が町じゃないの?」
「違うよ。いわゆる、道の駅って奴だね。ほら、街道が向こうからずっと伸びてるでしょ。そこを歩いてる人達が休む場所だよ。町はもっと大きいよ」
「じゃあ、道を歩きやすくしてるのも、その人達のため?」
「それはまた別かな。馬車って知ってるかい? 歩く以外に、大きな車輪のついた乗り物があって、それのために整地されてるんだよ。運が良ければ自動車なんか通るかもね」
 馬車や自動車の存在は知っているが、まだ実物は見た事がない。今まで僕が暮らして来た所には、そもそもそういう乗り物は必要がなかったのだ。実物はどれだけ迫力があるのだろうか。今からでも楽しみに思う。
 山道とは違って街道は実に歩きやすく、重い荷物も随分と楽になったように感じた。歩きも自然と速まり、予定では昼過ぎだった町にも昼前には辿り着けそうだった。かつて恵悟もこの遠い道を歩いて来ていたのかと思ったけれど、思い返せば恵悟にはそこまでの体力は無いから、きっと馬車などを呼んでいたのだろう。恵悟の家はお金があるから普段から当たり前に乗っていると言っていた。
 やがて見えてきた街道の続く先にあったのは、先ほど見た石の建物よりも更に沢山の建物が並ぶ一帯だった。まるで森のように建物がひしめき合い、そこに里に住む皆よりも沢山の人が行き交っている。よそ見をしているとたちまちぶつかってしまいそうで、一瞬たりとも気は抜けなかった。
「小太郎、こういう所で術を使うんだよ」
 人の流れが読み切れず慌てている僕に、そう惣兄ちゃんが話し掛けた。
「それってどういう事?」
「ほら、教本にも書いてあったはずだろ? 目立たなくなる術のこと。お前の祖父様の術だぞ」
「知ってるけどさ、でも何でそれを? 目立たなくなったら、余計ぶつかるんじゃないの?」
「それより、ようく町の人を見てみろ」
 言われた通り、僕は大勢がひしめく町の様子を眺めた。一体何の事を言っているのか。そう思ったのも束の間、すぐに意図が分かった。それは僕達の格好である。町の人のほとんどは小綺麗で身軽な服装をしているのだけれど、僕達はお世辞にも綺麗ではなく山の汚れが目立つ姿である。確かにこの格好では、悪い意味で注目を集めてしまう。目立って余計な騒ぎを起こさないようにするための術なのだろう。
「取りあえず、先にいつもの所に卸しに行こうか。昼食はそれからだ」
「じゃあ俺達はあっちだ」
「終わったらいつもの所で待ち合わせな」
「よし、分かった」
 僕達一行はここで二手に別れ、山菜を卸しに行く事になった。向こうは薬草などを卸すようである。薬草は知識が必要なため足元を見られ易いらしく、僕や惣兄ちゃんのような若者には向かないそうだ。なので干してもいない重い山菜を運ぶ役目になったのは、何も重い荷物を持たせるためだけではないようである。
 僕達は早速いつも山菜を卸している市場へと向かった。そこは飲食店の業者が出入りしているとかで、こういった山菜は物によってはかなり高く買い取ってくれるそうである。僕にしてみると、単なる御飯のおかずぐらいにしか思っていないので、どうしてあんなに美味しい物を沢山作る人間がこんなものをありがたがるのか、いまいち分からなかった。
 町の入口から歩いて三十分もしない所に目的の市場はあった。二階建て三階建てが当たり前のように軒を連ねる中、その建物は一階だけの平屋だった。しかし正面側は壁を一切取っ払ったように入口が広く、また奥行きも相当あるように見えた。建物の周りは固く整地された土地が四角く決められて、馬車と思われる荷台や手押し車などが幾つか止まっていた。市場という所にはあちこちから沢山の物が集まってくる。この乗り物はそれらを運ぶためのもので、数が少ないのは今日の買い付けは終わっているからだそうだ。
 皆の後に着いて市場の中へと入る。中は綺麗に区画分けされていて、厚紙の箱や風呂敷などが所狭しとひしめいている。どこで何を扱うのか詳しく掛かれた地図もあった。ざっと見ただけでは分からないものがほとんどだけれど、とにかく想像もつかないほど沢山の物が溢れている事は分かった。これらを自由に買えるほどお金があるのなら人から羨ましがられる、という心理も何と無く理解出来た。
 山菜を卸す所はいつも決まっているらしく、その人と交渉を始めた僕達の代表の人は随分と仲の良さそうに交渉を始めた。信頼出来る業者だからなのだろうか、一族の物が人間と親しそうに話している姿を見るのは不思議な心境だった。僕のした事は大人にはこう見えていたのだろうか、と想像するものの、時と場合が違うからあまり比較対象にはならないと考え直した。
 僕には良く分からない大人の会話が続き退屈と空腹で周囲が物珍しく見えなくなって来た、そんな時だった。
「おおい、仏花が欲しいんだが! 大至急!」
 突然この一角に雪崩込んで来て、誰ともなく大声で呼びかける人。それはやたら黒い服装をしている中年の男性だった。何やら急いでいるらしく、執拗に誰か答えてくれといった余裕の無い様子だった。
「おっと、去年と同じ忘れ物をしたな」
 男を見た卸先の人は、そう言って苦笑いを浮かべた。
「お知り合いですか?」
「ああ、村上さんとこの使用人だよ。今年ももうそんな季節になったかあ、早いもんだ全く」
「そんな季節?」
「命日ですよ。息子さんの」