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 それは、まるで後ろから不意に突き飛ばされたような感覚で、僕は一瞬地面への立ち方を忘れてしまったような心境だった。
 自分を冷静であるように戒め、今の言葉をゆっくり一つ一つ咀嚼していく。あの仏花は命日の供養に使うものである事、それを執り行っているのは村上というお金持ちである事、亡くなったのはそこの子供である事。どれ一つ良く考えて取り上げてみても、それは全て恵悟へと繋がるものだった。否定出来る理由を考えてみても、偶然以外の物は出ては来ない。どう考えた所で、一番自然なものは一つだけだった。
「おい、小太郎」
 僕の様子がおかしいと思ったのか、惣兄ちゃんが肩を揺すって呼び掛けてきた。すぐさま我に帰った僕は惣兄ちゃんの顔を見、そして周囲を見て、何でも無いと首を横に振り場を取り繕った。
「ああ、それだそれ。金盞花。奥様が好きな奴だから、それも入れてくれ」
 程なく喪服の男は目的の花を見つけたらしく、安堵の声を上げて花束を抱える。その姿勢のまま、来た時と同じように忙しない足取りで荷物の間を縫うように駆け抜けて行った。
 その後を付いて行きたい、そう僕は思った。多分あれを追っていけば、本当に執り行われているのが恵悟なのかはっきりする。けれど、それには理由が必要である。知り合いでも無ければ、ましてや人間の葬式、そういう事に今はもうなっている。僕が関わる自然な理由はどこにも無いのだ。
 そんな時だった。まだ商談の終わらない様子を見て、おもむろに惣兄ちゃんが側により僕に耳打ちした。
「まだしばらくかかるから、退屈なら近くまで行ってもいいぞ」
 何か含みのある言葉、けれど僕はそれが何なのか探ろうともせずに素直に頷くと、すぐに男の後を追って飛び出していった。
 市場から出て、すぐ側の広い通りへと抜ける。相変わらず里では有り得ないほどの数の人が往来を所狭しと行き来し、自分の歩く道を確認するだけでも一苦労だった。けれど、この中からあの喪服の男を見つけるのはあまり苦労しなかった。喪服を着ている人など他には居ないし、何より花束を抱えている姿が目立つ。見失ってから僅かな時間で同じ後ろ姿を見つけ、僕は付かず離れずの距離を取りながら後を付けて行った。
 男が向かった先は、大きな通りから小路を二本挟んだ側にある大きな建物だった。そこはあの男と同じような喪服の格好をした大勢の人間達で賑わっていて、僕はこれ以上進むのを躊躇わざるを得なかった。ここでは逆に喪服ではない自分の出で立ちの方が目立つ。と思ったものの束の間、町に入ってからずっと人目に付き難くする術を使っていた事を思い出し、それでも視線は気になり、そっと隅の方から中へと入っていった。
 まだ会場の準備が出来ていないのか、ほとんどの人が建物の周辺で談笑したり煙草を吸っていたりしてくつろいでいる。時折笑い声すら上がり、随分和やかな雰囲気だと僕は思った。その上、恵悟の法要の割に、二周り以上も歳の離れた人しかいない。これは恵悟の法要ではないのだろうか、そんな印象を僕は持ち始めた。
 どこかからこっそり建物の中へ入れないだろうか。中の準備を見れば、本当にかどうかを確かめる事が出来る。そう考え、僕は人気の薄い建物の裏手の方へと回った。そこは綺麗に整備された表とは違って、膝ほどの高さの雑草の目立つ薄暗い所だった。あまり人が来ないからなのだろうかと思い、建物の壁伝いに進んで行く。それから角を一つ曲がった時だった。まるで建物の隅に隠れるかのように、一人の喪服の女性が木箱を椅子代わりにして佇んでいた。
「あら、どちら様かしら?」
 彼女はゆっくり顔を上げて僕の方へ視線を向ける。それは言葉に詰まるほど疲れ切った表情だった。昨日今日でやつれた様子ではない。
「あ、いえ、その。ちょっと道に迷って」
「そうなの。ふふふ、こんな所に遊ぶ場所はないわよ」
 女性は僕を見て微笑した。
 その時僕は思った。彼女の、口許の緩めた形が恵悟に似ている。まさか、この人は。そう想像した瞬間、まるで胸が詰まるほどの息苦しさが込み上げて来た。
「あの、その、僕は、えっと」
「ああ、もしかして、恵悟のために来てくれたのかしら?」
 突然の脈絡の無い話。けれど、僕にとっては遠い話でもなく、うまく返事が出来なかった。しかし彼女は僕の返答を待たず、自分の話を続ける。
「あの子はね、都会では友達が出来なかったみたいなの。それなのにね、こっちに来てからは良く外へ出掛けて遅くまで帰って来なくて。友達が出来たからって、とても嬉しそうに話していたのよ。お医者様は、薬の副作用で意味の無い事を口走る事もあるとおっしゃっていたけど、私は信じるの。だって、あの子は決して嘘をつかない優しい子ですもの」
 一方的に話し続けるそれを、僕は気持ち半分で聞いていた。恵悟の事を知りたい気持ちと知りたくない気持ちが相反し、うまくそれに入り込めなかった。そんな、おどろおどろしさがあった。
 そして、僕は遂に一つの結論に達した。恵悟はもうとっくにこの世にはいない。あの新聞の記事の続報は、今正に自分が目にしている事なのだと。
「そろそろ時間かしら。ほら、せっかくだからね。恵悟にお線香を上げて行って。きっと喜ぶと思うの」
「いや、僕はもう行かないと……」
「いいから、遠慮しないで。さあ、早く」
 まだ事実を受け止め切れていないのに、これ以上逆撫でるような事はして欲しくない。自分はどう振る舞えばいいのかと、強い感情の行き場を失っていた。
 そんな時だった。
「おい、そこで何をしている!」
 突然の怒鳴り声と共に、一人の中年の男性が向かってきた。彼はじろりと僕の方を睨み付けると、尚も食い下がる彼女をぞんざいに引き離した。
「どこの子供だ? ここは遊ぶ場所じゃない、さっさと帰れ」
「あら違うのよ。あなた。この子は恵悟の友達なのよ」
「まだそんな事を言ってるのかお前は。いいからこっちへ来い」
「嫌よそんなの! 誰もあの子の事なんて気にかけていなかったじゃないの!」
「お前から言い出した事だろう!? いつまで待たせておくつもりだ! みんな暇じゃないんだぞ!」
 たちまち罵り合いになる二人。僕はとても居たたまれず、急いでその場から走り去った。
 何も考えられなかったし、考えたくもなかった。
 初めて来た町を闇雲に走ったのに、どこをどう来たのか覚えていなかったけれど、気がつくと僕は市場に戻って来ていた。調度、惣兄ちゃん達が市場から出て来た。長い商談と雑談が終わったらしく、昼食は何を食べようとかそんな話をしている所だった。
 それを見て、涙が出そうなほど、僕は安堵した。