戻る

 ママさんが冷蔵庫の中を見ながらメモ帳に書き込み始めるのは、外へ買い物に出掛ける時の合図である。いつもはもっと外が明るい時に出掛けるのだけれど、今日は何か理由があったのだろうか出だしが少し遅い。
 まこちゃんはソファーに座りながらテレビ番組を見ている。大体いつもやっていて時々お休みになる番組で、僕にはどういうものなのかあまり良くは分からないけれど、この時のまこちゃんは遊んで貰おうとしても絶対に遊んでくれないから、まこちゃんにとっては相当面白いのだろう。だから僕は番組が終わるまでまこちゃんの足元で寛ぎながら待っている。
「ねえ、まこちゃん。今夜のお夕飯は何が食べたい?」
「えー? うーん」
 そうママさんがメモ帳と冷蔵庫とを見比べながらまこちゃんに訊ねる。けれどまこちゃんはテレビから視線が離れないままで、返事も上の空だ。それがしばらく続いた後、ママさんはメモ帳とお財布を買い物袋へ仕舞い込むと、未だテレビをじっと見ているまこちゃんの頬を後ろからつついた。
「ママこれからお買い物行って来るけど、ちゃんと御留守番しててね」
「うん、分かった」
「それと、もしかすると宅急便の人が来るかもしれないから、来たらちゃんと受け取ってね。ハンコの場所は分かるわよね?」
「電話台の引き出しの中、でしょ?」
「そう。それじゃ宜しくね。テレビに夢中になって忘れないのよ」
「大丈夫だよ、あかしまが居るもん。あかしま、宅急便屋さんの人のこと嫌いだから、すぐ分かるよ」
「近所迷惑になるから、玄関の方へは行かせないのよ。じゃあ、行ってきます」
 ママさんはテレビに夢中のまこちゃんにそう言い残して家を出て行った。いつも買い物の時になるとまこちゃんは一緒に行きたいとねだるか、お菓子を買って来て欲しいとねだるか、そのどちらかになる。今日はテレビに夢中だったからだろうか、ママさんは足止めをされないようにそそくさと出て行ったように見えた。
 僕もそろそろお腹が空いて来た。夕飯はいつもみんなと同じ時間に食べるけれど、僕の御飯は最近野菜が増えたように思う。体にいいからとパパさんも食べさせられているから、きっと同じ理由なんだと思う。だけど、僕は野菜よりも肉の方が好きだから、本当はママさんにもっと増やして欲しい。でも、この間同じ事をパパさんがママさんに頼んで断られていたから、きっと無理だろう。この家で食べ物に関してはママさんが一番偉い。
 まこちゃんは未だじっとテレビを見つめている。手にしたコップの牛乳もほとんど減っていない。そんなに夢中になっているのかと足を小突いてみるけれど、まこちゃんはほとんど反応を示さない。いつもの事ではあるけれど、やっぱり目の前で放っておかれるのは寂しいものだ。
 テレビが終わるまでの辛抱と、僕はリビングをうろつき回り、ちょっとだけ水を飲んでから再びまこちゃんの足元へ戻った。まこちゃんも牛乳を半分ほど飲んでいたので、そろそろテレビが終わるのだろう。終わったら何をして遊ぼうか、と僕は考えを巡らせた。引っ張りっこのおもちゃか、若しくはボール遊びか。ママさんがいない時は追いかけっこをしても怒られないから、それもいいと思う。後はまこちゃんの気分次第だけれど。
「はあ、終わっちゃった」
 しばらくして、まこちゃんが溜息混じりにそう言いながら残りの牛乳を飲み干した。いつもまこちゃんはテレビが終わるとこういう残念そうな顔をする。ずっとずっと見ていたいくらい好きなのだろうけれど、もしもそんな事になったら僕はずっと遊んで貰えなくなる。僕はまこちゃんとは逆に、ここからが楽しくなるから嬉しくなってしまう。
 早速僕は遊んで貰おうとまこちゃんの膝の上に身を乗り出した。
「あかしまも残念なの? そうだよね、たった三十分しかやらないんだもの」
 まこちゃんは乗り出してきた僕の頭を撫でる。話は通じてないかと思った。
「じゃあママが帰って来るまで遊んでようか。先にコップ洗ってからね。ママに怒られちゃうから」
 そう言ってまこちゃんはキッチンの方へと向かい、僕もその後を追う。リビングとキッチンの境目には固い柵があって、そこから先は僕が入れないようになっている。だからまこちゃんが戻るのを柵の前で待った。
「ようし、それじゃあボール遊びしようか。あかしま、ほらボール持って来て」
 その言葉を待ってましたとばかりに、すぐに僕はリビングの隅にあるおもちゃ箱へ駆けて行くと、中から柔らかいボールを持ってまこちゃんの所へ戻って来た。
「うん、あかしまはお利口さんだね。ちゃんとボールって言って分かるんだから」
 僕からボールを受け取ったまこちゃんは、僕の頭を撫でながらにっこりと微笑んだ。
「よし、それじゃあ行くよ。それっ」
 掛け声と共にまこちゃんが下手からボールを放り投げる。すぐに僕は投げられ転がって行くボールの後を追って飛び出した。ボールは電話台の下へ転がり込む。僕は姿勢を低くしてボールを手前へと掻き出すと、すぐにまこちゃんの元へ持って戻った。
「よしよし、良く出来ました。それじゃ、もう一回。今度はこっち」
 再び放り投げられたボールはリビングのテーブルの下へと転がり込んだ。御飯を食べている時に下へ潜り込むと、パパさんがすぐに怒って追い出される場所だ。けれど今はパパさんは仕事に行っていないので、気にする事なく潜り込んでボールを持って来た。
「ちょっと簡単だったね。今度は遠くへ行くよ。それっ」
 次にまこちゃんが放り投げたボールは、軌道が高く緩やかだった。ボールはリビングで二度跳ねると、そのまま廊下の方へと飛び出していった。すぐに追い掛けてボールの行方を探すと、ボールは玄関の方へと転がっていったのが見えた。多分、階段か柱にぶつかって向きが変わったのだろう。
 今度も簡単だとすぐにボールを持ってまこちゃんの元へ戻ろうとする。
 その時だった。
『おい、本当に大丈夫なんだな?』
『ああ、今居るのは子供だけだ。さっき母親が買い物に出掛けたのをちゃんと確認している』
 玄関の外から耳慣れない話し声が聞こえて来る。パパさんでもママさんでもない、初めて聞く声だ。宅急便屋さんなら一人で来る。これは何か怪しい。
 そう思っている内に、玄関のチャイムが鳴らされた。かちゃかちゃと金属を擦るような音がドアの外から聞こえて来る。