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 先生からお水と食べる物を少し貰うと、眠気が差してきてうとうととし始めた。耳喧しい声で話すあの女の人も先生と一緒に仕事を始め、僕はまた一人でこの部屋に居ることになった。静かなのは寝るのに調度良いけれど、やはり物寂しさは否めない。まどろんでいれば少しは夢を見るけれど、気休めには少し足りない。一人で眠るのはこんなに寂しいものなのか、と改めて実感する。
 その内に、建物の中にはあの二人以外の別な気配が続々と集まり始めた。戸で仕切られてるせいかこちらに来る様子は無いけれど、自分以外の慣れない声や匂いを感じると落ち着かなくなる。普段ならそんな事はないのだけれど、やはり体が弱っていると気持ちまでもが弱って来るようだ。そのせいで自分の体がやけに小さく思えてしまう。
 あまり気に留めても疲れるだけだと割り切り、また体を丸めてうとうととし始める。けれど時折大きな声や音が聞こえてきて、何度もびっくりして目を覚まさせられた。音だけで別に何でもないのだけれど、都度目を覚ましてしまうのはあまり良い気分ではない。
 いい加減に何とかならないものか。そんな事を何度か繰り返していた時だった。
 ……ん?
 不意に聞こえて来たその音は建物の外からで、別段僕を飛び起こすような大きな物でもない。ただ、その音はとても聞き慣れた音で、反射的に起きてしまった。
 パパさんの車の音だ。
 まさか此処に来てくれたのだろうか。そんな事を思いながら、目の前の部屋の戸をじっと見つめる。程無くして戸の向こう側から足音が近づいて来るのが聞こえて来た。僕は飛び上がりたいほど嬉しくなった。聞こえて来たその足音は、僕は良く知っているからだ。
 そして目の前の戸が開く。次に現れたのは、
「あかしまー!」
 まこちゃんは真っ直ぐ僕の所まで駆け寄って来ると、体を持ち上げられない僕の顔と同じ高さになるように床へ這った。そして僕の頭から首筋を撫で、ぎゅっと顔を押し付けて来る。その後にはパパさんとママさんの姿もあった。みんな僕のことを忘れないでいてくれたんだ、そう安堵する。
「良かった、あかしまが無事で。大丈夫? 痛くない?」
 まこちゃんに問われ、僕はまこちゃんの頬を舐め返した。まこちゃんはくすぐったそうに笑う。僕は体中はまだ痛くて立ち上がれもしないけれど、これだけで急にどうでも良くなってきた。
「ほらほら、まこちゃん。あかしま君は大怪我なんだから、あんまりはしゃいじゃ駄目よ? 傷口が開いちゃう」
「ねえ、あかしまは何時になったら帰っていいの?」
「さてね。先生が良いって言うまでは此処に居てもらわないと」
「えー、やだ。私、あかしまと一緒に帰る」
「駄目なものは駄目よ。第一、まだ目が覚めたばかりなんだから」
 そうあの女の人に言われ、まこちゃんは不満そうに口を尖らせる。どうやら僕はまだ家には帰る事は出来ないらしい。じっとしている分には別に問題は無いのだから、僕もまこちゃんと一緒に帰りたいのだけれど。先生が許さないと、パパさんでも連れて行ってくれないのだろうか。
「あかしまはやっぱり当分かかりそうですか?」
「そうですねえ。まだ検査も色々やっておきたいと先生も言ってましたし、体調が急変しないとも限りませんし。まあ、見た感じでは随分落ち着きましたから、そう長くはかからないと思いますよ。詳しくは先生に聞いて下さい。午前中の診察が終わったら、ゆっくりお話出来ますから」
「それが、私はこれからもう出ないといけないので。話は代わりに家内が聞きます」
「あら、お仕事ですか?」
「いえ、今日から三ヶ月の停職処分になりましたので、これから正式に処分を言い渡されに行かないといけないんです」
「ええっ? どうしてまた」
「自分が外された事件に、無断で部隊を編成して介入したせいです。まあクビを覚悟してましたから、この程度で済んで良かったですよ」
「良く分からないですけど、警察って逮捕出来れば良いって訳じゃないんですねえ」
「規則を破ったんですからね、仕方ないですよ。では、そういう訳で。後の事は頼むよ」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 パパさんはママさん達と何か話をした後、足早に出て行ってしまった。多分お仕事に行くのだろう。僕はパパさんともお話したかったから、このまま素通りされるのは少し寂しく思った。でも、きっとまた来てくれるだろうから、それを待つ事にしよう。
「それじゃあ、私も向こうに戻りますので。何かあったら声を掛けて下さいね」
「すみません。ご迷惑をおかけします」
 そしてあの女の人も向こうへ行ってしまった。向こうで先生とお仕事をするのだろう。確か前にこの人には爪を切って貰った覚えがある。
「あかしま、大丈夫? ママですよ」
 ママさんはまこちゃんの隣に腰を下ろし、どうにか上向いている僕の頭を撫でる。まこちゃんに形が似ているけれど一回り大きい手だ。匂いも良く似ている。僕はその手に自分の顔を擦りつける。
「良かったわねえ、無事で。早く怪我が治るといいわね。あかしまがいないと、やっぱり家が寂しいから」
「ねえ、ママ。あかしまに美味しいの食べさせたら、早く治るかな?」
「そうねえ。栄養を沢山取れば、怪我も早く治るんじゃないかしら」
「あかしま、今は何が食べたい?」
 そうまこちゃんが問う。
 僕の御飯はママさんが用意する。今までに食べた物をあれこれ思い浮かべ、しばらく考えた後にその中から一つに決めた。この間、ママさんが僕用にわざわざ焼いてくれたオムレツだ。
 オムレツが食べたい。僕はそうまこちゃんに向かって念ずる。しかし、
「分かった! ママ、あかしまはねミートボールが食べたいんだよ」
「先週作ったあれかしら? それじゃあ、先生に聞いてみて、大丈夫だったら明日持ってきてあげましょうね」
「うん、私も作るの手伝う!」
 ああ、やっぱり伝わらなかったか。
 多分こうなるだろうとは思っていた。でも、ママさんのミートボールも美味しいから、それはそれで良いと思う。それに、僕のために作ってくれた物はどれもみんな美味しい。特にみんなと一緒なら尚更美味しくなる。