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「ほら、さっさと持って行きな」
 私の朝は、義母か義姉のそんな一言で始まる。母屋の勝手口の前で朝早くから待ち続け、朝食の準備が始まる頃にそれは行われる。突然無造作に戸が開き、義母か義姉が私が居るかどうかを確かめる。私が居れば一瞥した後に固くなった昨夜のパンを投げよこし、居なければそのまま明日の朝まで戸は開かない。どれだけお腹が空いていても、私に与えられるのは一日にそのパン一つきりで、後は自分でどうにかするしかない。けれど私はまだ子供で沢山働く事は出来ないから、山に行ってかじれるものが見つからなければ、後はひたすら我慢するしかない。
「ふん、今朝は早いんだね」
 そう言って、義姉は私に固くなった古いパンを投げよこす。私はそれを受け止め損ね、パンは地面に落ちて土まみれになるけれど、義姉はそんな事などお構いなく、投げたら今日は終わりとばかりにすかさず勝手口の戸を閉めた。
 こんなのはいつもの事、むしろきちんと貰えただけでも運が良い。泣きそうになる自分をそう慰めて、私はパンを拾い上げると、ついた土を払いながら自分の寝床へと戻った。
 私が寝起きしているのは、母屋から少し離れた所に建っている古い物置である。天井にも床下にも鼠が住み着き、雨が降れば酷い雨漏りをし、風が吹けば隙間から嫌と言うほど吹き付けられる。この物置はお父さんが生きていた頃にはもう使われていなくて、むしろ危ないから近付くなと言われるほどだった。寝起きどころか物置にすら使えない、古く痛んだ建物である。こんな所で寝起きするようになったのは、お父さんが流行り病で死んでしまってからである。元々あまり折り合いが良くなかった後妻の義母が、連れ子の義姉共々、本性をあらわにしたという状況だ。初めは毎晩のように泣いていたけれど、今となってはそれも面倒に感じて来た。何と無く、この自分ではどうしようもない状況に甘んじている。それ以外に言いようのない状況だ。
 寝床に戻ると、足のがたついた古いテーブルに、端々が欠けた皿の上に貰ったパンと、井戸水を汲んだ煤けたコップを並べる。そしてお父さんの唯一の片道であるペンダントをテーブルの反対側に置いて、向かいにお父さんの姿を想像しながら食事の前の神様への祈りを捧げる。それから朝食を始めた。パンはいつも夜食べる分に半分だけ残しておく。だからお腹一杯になるには足りず、それを井戸の水で紛らわせていた。もっとお腹が一杯になるまで食べたいとは思うけれど、それがただ願って叶うほど簡単な事ではないと分からないほど子供でもない。ただ願うだけで満足する、それが今の自分である。
 昼になり、また空腹が酷くなったので井戸水を汲に外へと出る。すると、偶然にも母屋から出てきた義母と顔を合わせてしまった。
「なんだい、アイラ。また働きもしないで寝てたのかい。相変わらず役立たずな子だね」
 働かないのではなく、お腹が空いているから働くほど力が出ない、そもそも自分を遠ざけているのはそっちの方じゃないか。そう言い返したかったけれど、空腹を我慢するだけで精一杯の私はそんな無駄な体力を使いたくはなかった。私はいつも通り、ただじっと黙って言われるがままになる。
「まただんまりかい。あの男とそっくりだね、陰気な所は。まあいいよ、それより仕事だよ。町まで行ってきておくれ。ぼやぼやするんじゃないよ」
 そう言って義母は私に使い古した買い物かばんを持たせて、足早に母屋の中へ戻って行った。かばんの中を見ると、買って来る物を書き留めたものと小銭が入っている。いつもこれを見る度に私は溜息を漏らさずにはいられなかった。しかし、買って来なければ明日のパンが貰えなくなる。町はここから四半日近くもかかるほど遠く、もたついていると帰りが夜になってしまう。私は早々に出発した。
 家から町まではほぼ一本道である。しかし、所々に整備のされていない細い悪路があり、峠も二つ抜けなければいけない。特にこの峠は人気が無いばかりか昼間でも薄暗く、時折山賊などの野盗が出たという話も聞く。日が落ちてからは出来るだけ通りたくはない。もっとも、義母はそれを知っている上で私に買い物へ行かせている。きっと、これでうまく厄介払いが出来れば、近所への体面も悪くないと思っているのだろう。
 一つ目の峠を抜けると、砂利の多い道中一番の悪路へ出る。私が履いている靴は古くて靴底が擦り減っているから、うっかり鋭い石を踏むと非常に痛い思いをする。なので、ここはいつも足元ばかりを見ながら進む。
 悪路を抜けると、再び峠になる。ここは町が近いせいか人の往来も多く、比較的安心して歩ける場所である。けれど、うっかり余所見をしていると荷馬車にひかれかねないので、私はいつも道の隅の方ばかりを歩いている。
 町に着いたのは日も傾いた昼下がりだった。人の行き交いは普段よりは少なく、幾分落ち着いた時間帯である。これが夕方になると夕食の買い出しで人出が途端に増え、とても賑やかになるのだ。
 私はいつも通り市場へと向かった。歩きながら確認した書き留めには、塩とろうそくとある。市場のどこにでも扱っているから、子供の自分でも捜すのはさほど難しくはない。
 どちらも買い置きのための物で、早急に買わなければいけないものではない。私はそういう物をわざわざ買いに行かされる度に、そんなに自分にいなくなって欲しいのか、と毒づきたくなった。けれど、それを一度として本人の前で言った事はないし、そんな勇気もない。ただ、素直に従うのを繰り返すばかりである。
 市場に向かう道中、行き交う人々の中に口許に布を巻いて覆っている人がやけに多い事に気付いた。歩くのに息苦しくないのだろうか、そう疑問に思う。
 市場に到着すると、私は手近な所から雑貨屋を探した。大概の雑貨屋なら、どちらも一緒に扱っている事が多いからである。目当ての店はすぐに見つかり、店主のおじさんに目的の物を伝えた。おじさんはすぐに品物を用意してくれ、私は代金を支払った。
「みんな布を巻いてるけど、何かあったんですか?」
 受け取り際、私は何気なくおじさんに訊ねてみた。
「ああ、何でも流行り病だそうだ。先週くらいからチラホラ出始めててよう。ほらこの間、町の近くに星が落ちただろう? 随分な騒ぎになったよなあ」
「確か、北の峡谷に落ちたんでしたっけ。噂で聞いた事があります」
「そう、それそれ。あれが悪魔の化身だとかで病魔をばらまいてるんじゃないかって。若領主様御抱えの占い師がそう言うんだと。まあ、嘘臭い話だよな。昔っから、ちょっと風邪が広まるとみんなして流行り病だなんだって騒ぐけどさ、しばらくしたらみんな忘れてしまうもんな」
「結局、単なる季節の変わり目のせいですよね」
「まあ、そういう事だ。一応お嬢ちゃんも風邪には気をつけなよ」
 目的の買い物を終えて市場を後にした私は、足早に家路へ着いた。太陽が既に傾きかかっている。来る時も出来る限り急いで来たのだけれど、同じペースでは家に着く前に日が暮れてしまう。もっと急がなければ、帰り道は物騒で危ない。そんな中ふと、病気にかかれば死ねるだろうか、と思った。でも、きっと死ぬまで苦しむだろうし、今よりも惨めな思いをするだろうから、やはり病気にはなりたくない。