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 町を出て、一つ目の峠を抜ける頃にはもう橙色の西日が差し込んで来た。もっと急がないと、次の峠に入った所で完全に日が落ちてしまう。町から離れた場所で夜に一人で歩くのは、本当に命が危ない。普通の家なら、馬車を出すのも躊躇うくらいなのだから。
 二つ目の峠に続く道は大小の石が幾つも転がっている悪路だ。駆け足で一気に踏破したいけれど、足元を見ていても躓くような道で、しかも夕方にそれをするのは、あまりに無謀である。自分で手当も出来ない怪我をするのだけは避けたい。
 転ばない限りの早さで先を急ぐ。けれど夕日はどんどん西へ沈んで行き、辺りは目に見えて薄暗くなっていく。日が全て落ち切ったら、後は月明かりだけが便りになる。だけど峠の中にまで月明かりは差し込んで来ないから、おそらくこのまま次の峠に差し掛かったら真っ暗で足元も覚束なくなるだろう。そして、こういう時の峠には、一体何が潜んでいるのか分からない。
 とにかく、太陽を自分でどうにかする事は出来ないのだから、後は何も出くわさないようにと祈る他無い。今までは運が良かったけれど、今度はどうなるだろうか。そんな不安を抱えながら歩いていたその時だった。
 今夜は月が出ているかと顔を上げたその途中、ふと街道の脇に小さな獣道がある事に気が付いた。藪がたまたま道に見えるように分かれて伸びているのかも知れないが、道と呼べなくも無いほど土がむき出しになっている。いつも下を向いて歩いていたから、ずっと気づかなかったのだろう。
 どこに続いているのだろうかと一度足を止め、その道の先を目で追ってみる。道はすぐ脇の森の中へと入って行っているが、おそらくそれよりも先に続いていそうに見えた。そしてこの方角は、丁度家の裏手側に真っ直ぐ続く方向である。もしかすると、この道を辿って行けばかなりの近道が出来るかもしれない。
 この時間に初めての道を通るのはいささか躊躇いがあったものの、方角さえ分かっていれば迷う事は無いのだし、どうせこのまま峠に入れば危ない事に変わりはない。私は今後への期待感も持って、この細い小さな道へ踏み入った。
 道を辿りながら森の中へ入る。薄暗く不気味な雰囲気は峠と一緒ではあったが、思っていたよりもこの道はどこまでもしっかりと続いており、足元の感覚さえ見失わなければ大丈夫なように思う。ただ、こちらの森は峠よりも木々の密度が薄くて光は多く差し込むのだけれど、その下手な光量のせいで周りの景色を怖いものに錯覚してしまうのだけは嫌だった。こちらはこちらで、やはり夜には歩きたくはない。
 しばらく歩き続けている内に、ふと私はある疑問を持った。それは、一体誰がこんな街道外れに道を引いたのだろうか、というものである。まだ実際どこに続く道なのかは分からないけれど、こんな薄暗い森の中に家を建てて住んでいるとは思えないし、おそらくどこかの誰かが近道をするために拓いたものだと考えるのが自然である。けれど、人が踏み固めたにしては随分はっきりと土が露出している不自然さがどうにも気になる。ただの獣道だったら、もう少し草木が入り乱れて歩き難いものなのだけれど。
 日もすっかり落ち、手を伸ばした先も良く見えないほどの暗闇に包まれる。木々の間から星の位置を確認してみたが、大きな星が二つ三つ微かに見えるだけで、おおよその方角しか確かめられない。おそらく合ってはいるだろうけれど、万が一という事もある。私は不安と戦いながらも、尚も足を出来るだけ早く前へと動かす。
 そんな時だった。
『もし、そこのあなた』
 ほぼ暗闇の森の中、歩いているのは自分一人だと思っていたそこに、突然と知らない声が響いた。足を取られて転んだり頭を枝にぶつけないようにする事ばかり注意していた私は、予想外の事に驚きぴんと背筋が伸びた。
 今、人の声がしなかっただろうか? それとも、急ぎ過ぎるあまり葉っぱが擦れた音を聞き違ったのか?
 当然有り得ないと思った私は、まず否定からしてかかった。今この状況では、自分以外の声は聞こえるはずはない、むしろ聞こえてはいけないからだ。けれど、驚きと緊張で高鳴る心臓が落ち着く暇も無く、その声は再び聞こえて来た。
『言語は合っているはずです。そこのあなた、私の前方を通り過ぎようとしているあなたです。私の声が認識出来ますか?』
「え、私……ですか?」
『そうです。私は今のあなたの位置から南西に数歩の茂みより発信しています。まずはこちらを向いて下さい』
 この声の主は、私を振り向かせようとしている。そう思った瞬間だった、絶対に振り向いてはならないと身の毛がよだち、押さえ切れないほどの恐怖が込み上げて来た。話かけて来ているのは、明らかに普通の人ではない。こんな森の奥の茂みの中で、人が通るのをずっと待っているなど、普通ならばするはずがないのだ。
「し、知りませんっ!」
 心臓が早打ち過ぎて指先が痺れ始めるのが分かるや否や、私は半ば目を瞑って無我夢中にその場から駆け出した。一刻も早くここから逃げなければいけない、後ろから追い掛けて来ているのではないか、捕まったらまず助からないに違いない、そういった恐ろしい想像が矢継ぎ早に頭の中を駆け巡る。その想像が、町までの遠出をして疲れ切っているはずの足を信じられないほど軽くする。だけど、幾ら速く走っても、まだ自分が鈍いように思えて、たまらなく怖かった。
 それから、どこをどう走ったのか覚えてはいないけれど、気が付くと私は森を抜けていた。目の前には、家のすぐ近くの道が伸びている。方角は間違っていなかったらしく、無事に峠を迂回した近道が出来たようである。
 そんな事よりも。
 私は何とか逃げ果せたのだろうか。恐る恐る振り返ってみると、そこには真っ黒な森が生い茂っているだけで、走っている最中に数え切れないほど想像した恐ろしい物は微塵も見当たらなかった。
 ただ一つ、森の中でずっと辿っていた、あの細くも妙にくっきりと引かれた獣道だけが、森の中から自分の足元まで、星の明かりでもはっきり分かるほど続いていた。