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 その晩は買ってきた物を母屋へ届けた後、寝床へ戻ってすぐに眠ってしまった。母屋の方からは夕食の良い香りがしたけれど、朝に残したパンを食べる食欲も分かないほど疲れ果てていて、お腹が空いた事など考える暇も無かった。次に目が覚めた時は既に朝方になっていた。足はまだ痛みが少し残っていたものの、体の疲れはすっかり抜けて、お腹も空いていた。
 またいつものように台所の勝手口からパンを貰い、井戸水を汲んできて朝食を済ませる。今朝は昨日の残りもあるので、いつもより少し多く食べられた気がした。
 お腹が膨れ落ち着いて来ると、まずは昨夜の事を順を追ってゆっくりと思い返す事にした。疲れも無いし日も昇っているからだろうか、昨夜の恐ろしい体験を思い出す事が驚くほど苦ではなかった。
 まず昨日の私は、いつものお使いで町へ出掛けていた。その帰り、時間が遅くて暗くなってしまったので、危険な二つ目の峠を避けようとして近道をした。その近道は、たまたま見付けた脇道で、しかも近道だったのは今となってはの事である。
 近道は森の中を突っ切る形で伸びていた。そこを歩いていた最中の事だ、あの声が聞こえてきたのは。
 今になって良く思い返してみると、男とも女とも若くとも年老いているとも取れない、形容し難い不思議な声だった。普通、声を聞いただけでもどんな人かぐらいはある程度想像は出来るものなのだけれど、あの声にはそういった物が一切無かった。あれはやはり幽霊だったのだろうか? 私を立ち止まらせ自分の方へ誘い込もうとしたのは、取り殺すつもりだったからなのだろうか? 馬鹿正直にあの声に従っていたら。果たして今頃私はどうなっていた事か。昼間でもそういう想像はあまりしたくはない。
 もしも幽霊だとしたら、勿論近づかないに越した事はない。人間だとしたら、尚更近づかない方が無難である。せっかく見つけたあの近道をみすみす放棄するのは勿体無いが、あんな思いを二度もするのは勘弁して欲しい。
 よって、あの近道は二度と通らない、正体も深入りしない。そう私は結論付けた。どうせ義母達に疎まれながら生きていても仕方がないのに、とは思うものの、かと言って自ら命を投げ出すほど自棄にはなれなかった。
 その後、私はしばらくの間は普段と変わらない日々を過ごした。相変わらず義母達との折り合いは悪く、事ある毎に死んだ父ごと罵倒されるのは辛かったけれど、それを除けば何も変わった事のない平凡な物である。それだけでも幸せなのだと思わなければならない、そんな一念の繰り返しだった。
 そして、あの日から調度一週間が経った日の朝だった。またいつものように台所の勝手口から義母にパンを貰うと、
「ほら、今日はお使いに行って来な」
 と、また買い物袋と書き留めを渡された。間違いが無いようにと書き留めの内容をすぐに確認する。いつものように塩や砂糖、縫い針といったものが並んでいたが、今日は見慣れない物が挙げられている事に気が付いた。
「酒精?」
「消毒だよ。最近じゃ、町の方で流行り病が広がってるっていうからね。ほら、さっさと行くんだよ」
 だから私に買いに行かせるのか、と気付くものの、そういう扱いはいつもの事なので、私は義母に煽られるまでもなく、早速町へと出掛けていった。
 午前中から買い物に行くのは、夕方くらいからもうお腹が空いてしまうので、あまり好きではなかった。けれど、そういう時のお使いは普段と違って本当に早急なものだから、怠けているとその分のお返しがある。取り合えず、出来るだけ安く品を揃えて、余ったお金で何か食べる物をこっそり買おう。それぐらいの役得が無ければ、とても体が持ちそうにない。
 最初の峠を抜けて石だらけの悪路に差し掛かった頃、調度昼時を迎えた。少し急ぎ過ぎたせいか、いつもよりも空腹感があって、思わず溜息が出てしまった。もうそろそろ季節は秋を迎えるのだから、山に行けば何かしら食べられる物が見つかるはず。いっそ、どこか義母達の目の届かない所で栽培してみるのも悪くはない。
 相変わらず石の減らない悪路を、足元に十分気をつけながら先を急ぐ。その時、ふと先日のお使いの帰りに通ったあの近道の事を思い出した。ここまでの道程ならおそらく半分ぐらいは短縮出来るあの近道、けれどその道中には得体の知れない何かが居るから二度と通らないと決めている。
 しかし、本当にそんな道があったのだろうか。一週間も経ちほとぼりも冷めて来たせいか、あの時の事は実際に起こった事なのかという疑いすら持ち始めていた。もし本当なら、まだあの道があるはず。そう思い私は道端にも気を配りながら先を進んだ。けれど、次の峠までの間それらしきものは見つからなかった。果たしてあの道は本当にあった道なのか、それともとっくに通り過ぎてしまっていただけなのか。取り合えず今は、余計な物を見なくて済んだと安堵する事にした。
 町に着いたのは調度昼下がりの頃だった。町が一番人でごった返す時間帯でもあるので人の往来は多く、余所見をしていると私のような子供はすぐに跳ね飛ばされそうになった。
 ちゃんと四方を気にしながら人込みを掻き分けて市場へと向かう。その途中、行き交う人々を何気に観察していたが、以前よりも口許を布で被う人が増えたように思う。町では流行り病がずっと続いているのだけれど、この分ではまだ収まるどころかますます発症者が増えているようである。あまり気にしていなかった私だけれど、流石に無視も出来ず、着けていたただ一枚のスカーフを口許に巻いて被った。
 市場へ着くと、いつもよりも一層人が溢れている印象を受けた。昼間は賑わうのが普通だけれど、何かあったのだろうか。疑問に思いながらも、あまり買い物に時間はかけられないのでとにかく中へ入っていった。市場の中はどこもかしこも買い物客でごった返していて、足の踏み場にも困るほどだった。しかも時折何かしら歓声が上がると思いきや、この混雑の中で大勢の人が一斉に動いたりし、逃げ場の少ない分外を歩くよりも遥かに危険だった。書き留めを見ながら安く売っている所を捜すような余裕も無く、私はあっという間に市場の隅へ弾き出されてしまった。
「やあ、お嬢ちゃん。大丈夫かい?」
 よろめきながら立ち上がった私に声をかけて来たのは、すぐ傍でのんびりと荷を解いていた小柄なおじいさんだった。
「あの、今日はどうしてこんなに混んでるんですか? 何かみんな殺気立ってるし」
「今日も何も、ここ何日かはよくある事さ」
「よくある?」
「例の流行り病だよ。そのせいで、今のうちに買い溜めをしないと物が無くなるって思ってるのさ。もう品物の奪い合いさ。わしら商人にしてみれば、付けた値段で売れるからね、かき入れ時だがね」
 そう笑って、おじいさんは懐からキセルを取り出し火を点けた。
「そんなに食べ物が足りなくなってるんでしょうか?」
「まさか。欲張りが増えて、そんな風に感じるだけさ。それよりも薬だな。そっちの方の不足が大変だ。ただでさえ多く流通はしていないのに、金持ちが片っ端から買い集めてるからね」
 とにかく流行り病にかからないように、かかったとしても助かるように、みんな薬を欲しがっているのだろう。けれど、一部の人が独占してしまったら、助からない人が大勢出てしまうのではないだろうか。
「あの、それじゃあ酒精も無いんでしょうか?」
「そうだなあ。手に入れやすいとは言っても、そんなに多くはないからのう。ま、それよりもお嬢ちゃんはついておる」
「ついてる?」
「お使いじゃろう? それも遥々町の外から。調度、昨日仕入れたばっかりでな、そういう親孝行なお嬢ちゃんには特別に安くしておくぞ。その代わり、他にも何か買っておくれ」
 おじいさんは群衆に気付かれないようにと静かにするポーズをしながら、解いた荷の中を少しだけ私に見せてくれた。
「阿呆な大人よりも子供が生き延びた方が良いからのう。それ、早いとこ仕舞った仕舞った」
 おじいさんは私に酒精を包みのままこっそりと持たせてくれた。それから、書き留めにあった他の品も全ておじいさんの所で買った。結局お金は残らなかったけれど、不足しているという酒精が普通の値段で買えただけでも良しとしようと思う。ただ、その酒精も私には一滴も使わせては貰えないだろう事は、流石におじいさんには言えなかった。