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 私は覚束ない足取りで井戸に向かい、水を汲んで飲んだ。冷たい水がじんとお腹の中に染みる。けれど、すぐに雲のようなもくもくとした不安感が込み上げて来て、水はどこに入ったのか分からなくなった。
 どうすればいいのか分からなくなり、私はただ何と無くライブの居る所へ向かった。何も根拠はないのだけれど、この状況をライブなら何とかしてくれるのではないか、そんな思いにすがったせいだろう。
『おはよう、アイラ』
 歩き慣れて来た細道を進んで行き、調度反対側との中間まで来ると、唐突にライブの声が聞こえてきた。初めは驚いていたこれも、今はもうすっかり慣れてしまった。離れた所から挨拶をしてきたライブは、昨日と変わらず平たい石の上にいた。朝日を浴びてどこか暢気に佇んでいるようにも見える。ライブは何も食べないけれど、草木のように日光だけは欲しがるのだ。
「良かった……ライブは居てくれて」
『何かありましたか? 顔色が良くありません』
「うん……」
 私はへたりこむようにライブの前へ腰を下ろした。いや、多分本当にへたりこんだのだろう。ライブの声を聞いて酷く安心してしまったのだから。
「お母さんとお姉さんがね、前に言った義理の家族だけど、さっき家を見たら居なくなってたんだ」
『外出ですか?』
「ううん、どこかに引っ越したんだと思う。荷物が無くなってたから。この辺りまで流行り病が来たみたいだし、避難したんだよ」
『アイラは行かないのですか?』
「私は知らされてなかったから。捨てられちゃったんだ、きっと」
 私に見つからないように逃げ出す二人の姿を想像し、私は泣き出しそうになった。あの二人が家に来てからは楽しい事など一つも無かったし、お父さんが死んでからはますます辛くなった。だけどこの泣きたい気持ちは、それらとはまた違うもののように思う。
『良かったですね』
「え?」
『良かった、と言ったのです。アイラは前々から義理の家族とは折り合いが悪いと言っていたではないですか。それが向こうから縁を切ってくれたのなら、罪悪感も抱かなくて済むでしょう』
 ライブは事も無げに、そう淡々としたいつもの口調で答えた。合理的だけれどあまりに冷たい言い草ではないか、と私は一瞬頭に血が上った。けどよく落ち着いて考えて見れば、それは確かにライブの言う通りなのだ。こうなる事を願うなんて前々から数え切れないほど繰り返している。それがいざ実際に起こって、一体何を悲しむのか。私は自分の事なのに訳が分からなくなった。
『何故悲しむのですか?』
「分かんないよう、そんなの。だって、自分でもこんなに悲しくなるって思わなかったんだから」
『そうですか』
 ライブはそう言ったきり黙り込んでしまった。私の言っている事が分からないから下手な事は言わない、そんな沈黙に感じた。本当は何か喋って欲しいけれど、ライブはそういう気休めは言わない性格だし、気が回る訳でもない。それはこれまでの付き合いではっきりしている事だ。
「ねえ、ライブ。病気が無くなれば戻ってきてくれるかな?」
『私のベイズ予測を聞きますか?』
「ううん、やっぱりいいや」
 どうせ戻って来るはずがない、次の土地に移ったのはそこで安定して暮らせる当てがあるからで、私にはそこへ入り込むような余地などさらさらあるはずがないのだ。
「ねえ、ライブ。今夜からうちに来ない? いつまでも野ざらしは大変でしょ。ベランダもここより日当たりがいいよ」
『アイラが良ければ私は構いません』
 相変わらず口調だけは冷めた感じで答えるライブ。だけど、別にそれでも良かった。ライブは本当は優しいし誠実だと、私だけが分かっているからだ。
 その日は夕方になるより少し前に森を出た。持ち上げたライブは大きさの割に驚くほど軽く、重さよりもむしろ隠れて見えなくなっている足元に気をつけなければならないほどである。
 ライブを連れ、私が普段寝起きする母屋から離れた物置へ向かう。もう義母も義姉もいないのだから堂々と母屋へ行けばいいのだけど、あそこは嫌な思い出の方が多くて、何と無く足が向かなかった。ベッドも古い手入れをしていないものしか無いだろうし、それなら使い慣れたこっちの方が良い。
 夕食にはまた市場で貰った保存食を食べた。まだ少し余裕はあるけれど、いずれは無くなってしまうものだ。以降はどうにかして自分が食べる物を用意しなければいけない。もう自分には、固いパンすらくれる人もいないのだから。
 私はいつもの椅子で、ライブはテーブルの向かい側へ置いた。椅子はもう一脚あるけれど、ライブを置くと視線が下がり過ぎて見えなくなってしまうのだ。
 一人じゃなくて夕食を食べるのはいつ以来だろうか。ライブは人間ではないし食事も食べないけれど、目の前に自分以外の存在がいるだけでも私には満足だった。楽しい食卓を囲んでいる、そんな気持ちになれるのだ。
「ねえ。お父さんはどうしてあんな人と一緒になったんだろう? 私のお母さんの事、ずっと好きだって言ってたのに」
『男女間の事は繁雑で特定出来ません。しかし、人間心理学の見地から見れば、寂しかったのではないかと窺えます』
「寂しい?」
『伴侶を失ったショックで、気が動転する事は珍しくありません。そこに付け込まれれば平素では有り得ない判断を下す事もあり、また総合的な注意力も落ちて誤った選択をする事もあります。心理的な盲目状態、と言った所でしょう』
 ふと何気無く振った雑談の話題に、自分はお父さんにずっと甘えてばかりだった事を思い出さされた。それがもしかすると、お父さんを追い詰めたのかもしれない。自分がお父さんを苦しめていたのかと考えるとやる瀬なかった。
『アイラも今正に同じ状態です。くれぐれも判断を違えないように。人は概ね自分の盲目さには気付けないものなのです』
「私は大丈夫だよ。ずっと一人と同じだったから。何も変わらないよ」
『そうですね、知っています』
「それに、今はライブが居るからいいよ。私、寂しくないから」
 ここにライブと居ても、誰も咎める人はいないのだ。このまま一生ライブと楽しくお喋りしながら過ごしてもいいと思っている。流行り病は早く治さないといけないけれど、それさえ済めばライブはもう自由になるのだ。
 しばらく雑談に興じている内に、気がつくとライブは喋らなくなっていた。夜は日光が無いからあまり活動しないと言っていた事があるから、きっと眠ってしまったのだろう。
 私も眠ろう。
 ライブを枕元へ動かして自分もベッドへ入った。目を閉じ静かにしていると、ライブから僅かに震えるような小さな音が出ているのが分かった。けれど今の私にとって、そういう物音はかえって安心する事が出来た。