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 その日の朝も、私はいつものように日の出と同じに起きた。
 まず起きてから最初にするのは、あの日以来動かなくなったライブの様子を見る事だった。ほんのりと温かかった鉄はすっかり冷たくなり、幾ら呼び掛けてもあの淡々とした口調で話し始めたりもしない。ライブの言っていた通り、私が大人になるまでこんな調子が続くのだろう。でも、万が一という事もあるから、自己満足かもしれないけれど、ライブに話かけるのは私の日課にしている。
 部屋のカーテンと窓を開けると、早朝の涼しい空気と上り始めた太陽の光が入り込んで来た。今日も天気は良くなりそうである。私はライブがたっぷりと日光を浴びれるように、窓際に移した椅子の上へそっと置いた。
 もうかれこれ一月も同じ事を繰り返している。歳を一つ取るにも短過ぎる日にちだけれど、私にとってはライブと話せない一日は同じくらいとても長く感じる。世間ではもう、あれだけ騒がれた流行り病はすっかりと落ち着いてしまったのに、まだ私とライブの間だけは燻ったままだ。
 ライブの薬が出来た翌朝は、日が昇ると同時に一斉に荷馬車や早馬が方々へ飛び出していった。流行り病が広がったのはどこまでの地域なのかが不明確だから、とにかく国全体に配布して回らなければならない。けれど馬車なども運送手段は限られているから、如何にそれを効率良く中継し使っていくかが重要になる。そのせいで憲兵さん達は休む暇も無いほどあちこちを飛び回っていた。全国に何かを一斉に配るような事例は今まで一度も無く、大人達は本当にうまくやれるのか不安がっていたけれど、それでも三日も一心不乱に続けていると、自ずと結果がついて来た。途方もない数に思えた配布先もほとんどが完了して、あんなに大勢が亡くなった流行り病は嘘のように収まってしまった。
 最後に領主様が決着を宣言し、その日からいつかみんな流行り病の事など忘れてしまうのだろうと思っていたけれど、もうとっくに忘れてしまったように見える。嫌な事は早く忘れた方が良いし生活を立て直す方が大事だから、そこに長々とこだわる理由は本当は無い。だけど、ほとんどの人がライブの事を知らないままに忘れてしまうのは、納得がいかないというより物寂しさを感じさせる。
 ライブを軽く拭いてあげた後、手早く身支度を済ませ部屋を出る。向かう先は使用人の家からさほど離れていない領主様の御屋敷だ。目と鼻の先ほどの距離で、使用人達が使う勝手口を開ければすぐに家が見えるから、仕事をしていてもあまりライブから離れたりしないのは安心である。ただ、使用人の家は今はほとんどが空き部屋になっていて、ライブは一人で淋しいのではないか、などと要らない心配をする事はあるのだけれど。
「おはようございます」
「おはよう、アイラ。早速だけど、そこの野菜、下拵えしちゃって」
「はい、分かりました」
 勝手口から中へ入ると、炊事場には既に台所番のグレタさんが来ていた。ライブの薬を作る時に炊き出しを一緒にやった恰幅のいい姐御肌の人で、あの時はまさか領主様の御屋敷で働いているとは思わなかったから、初めてここへ来て紹介された時は驚いたものである。元々人見知りしがちでもあったから、全く知らない人ばかりというよりは気が楽だった。
 朝食の片付けが終わると、今度は洗濯物の仕事が始まる。領主様の御屋敷には沢山の人がいるので洗濯物も多い。奥様が赤ちゃんを産んだなら、更におしめも増えるのだろう。そしていずれは子供の服が増えてくる。今からそれが楽しみに思えた。
 昼食の片付けが終わり、そこから夕方にかけては一息つける時間帯だ。夕食の仕込みをやりつつ、何か仕事を指示されたらやるという調子で次に追われる事が無い。庭師の人達は影で昼寝などもしていて、忙しい朝とは反対に時間がゆっくり流れる印象だ。私も朝からほとんど息つく暇も無かったけれど、この時間はのんびりとお茶とお菓子を食べたり出来る。
 日が傾き始めた頃、いよいよ夕食の準備となる。今夜は何を作るのだろうかと考えていた、そんな時だった。
「アイラ、ちょっとお使いをお願い。香草を切らしちゃったままなのよ」
「分かりました。すぐ行って来ます」
 私はお金と買い物かごを持って町の市場へと出掛けた。急なお使いは大体私の仕事である。単に人手が足りないからなのだけれど、市場に詳しい人が他にいないという理由もある。以前までは専任の業者に全部任せていたが、その担当の人が流行り病で亡くなってしまって補充がうまくいかなくなったそうだ。だから不思議な事に、御屋敷で必要な物を誰も把握していないという状況なのである。
 市場へやって来ると、今日もまた大勢の人で賑わっていた。すっかり元の活気を取り戻していて、見ているだけでも元気が湧いて来るけれども、子供の私が大人達の間を縫って買い物するのは一苦労である。ゆっくりと買い物をするのなら、もう少し人の空いた時間帯が良い。
「おや、久しぶりじゃないかい?」
 人込みに弾き出され一息ついたその時、ふとどこかで聞き覚えのある声に呼び止められた。振り向くと、そこにいたのは前にお使いで酒精を安く売ってくれたあのおじいさんだった。
「ああ! ご無沙汰しています。この間はありがとうございました。あんなに沢山戴いて」
「なんのなんの。お嬢ちゃんこそ元気そうで何よりだ。良かったねえ、流行り病にかからなくて」
「おじいさんの方こそ大丈夫でしたか?」
「ははっ、まあ何だかんだで死に損ねてしまったよ。お迎えはまだ先みたいだから、またこれからじゃんじゃん稼ぐつもりさ。そういう訳で、何か買っていっておくれ」
 最後に見た姿が今にも消え入りそうなほど弱々しいものだったから、以前のように飄々として元気な姿に戻っている事が嬉しく思えた。取り分け親しい訳ではないけれど、やはり顔見知りが元気で暮らしているのは気持ちが良いものだ。
 おじいさんの所で必要だった香草を買い揃えて御屋敷へ戻る。正門の前には警備の人達と、たまたま夕方の見回りをしていたボドワンの姿があった。ここ最近のボドワンは少しだけ元気が無いように思う。あの一件で、いつの間にかユグが失踪してしまったからなのかもしれない。あまり仲は良くないように見えていたけれど、喧嘩をする相手がいないと気落ちして大人しくなってしまうのだろうか。
 勝手口へ歩いている途中、ふと使用人の家の自分の部屋の窓を見た。ここからではライブの姿は見えないけれど、何となく今どうしているとかその姿を想像してみた。
「あっ」
 その時だった。見上げていた窓から、赤い光が一瞬点った。
 まさかライブが目を覚ましたのだろうか?
 そう思った直後、また同じ光が少し長めに点った。そこで私は、それは単に窓枠が夕日を反射しただけである事に気付いた。私の早とちりだったようである。
 ライブはまだ目を覚ます気配は無く、本当に起きてくれるのだろうかという不安がある。耳を当てると微かに音がしているような気もするけれど、それだけではとても安心は出来ない。
 実は一つだけ、ライブに訊きそびれた事がある。それは、流行り病が無くなった後ライブはどうするのか、という事だ。通信機能が治れば船を呼べると言っていた。だから事が済んでしまったら、自分の星に帰ってしまうのではないだろうかという気がしていた。
 ライブと白紙の約束をしたのはそのためである。
 もしもライブが自分の星へ帰ると言ったら、私とこれからもずっと居てと言うつもりだ。ライブは約束を守るか破るか分からないけれど、少なくとも簡単に破るようには見えない。だからきっと、いつものように淡々とした口調で言うはずだ。約束ならば従わなければなりませんね、と。
 早くそんな日が来ればいいのに。
 そう願いながら、私は勝手口の方へと駆けて行った。