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「蘇我弘隆さんですね?」
 その男は、いつもと何ら変わらない出社の途中に突然現れた。ビルの正面玄関から少し脇に逸れて、鞄の中から受付より奥へ通るのに必要なICカードをここで出しておくのがいつものパターンである。今朝も同じようにカードを探り出し、そのまま玄関を通るはずだった。
「はい、そうですが。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
 記者という仕事柄、一度会った人の顔と名前は極力覚えるように努めている。それでもたまに失念してしまう事はあり、その男に見覚えは無かったから、そういう中の一人かと初めは思った。
「ああ、実は、その……」
 男は急に声を潜めて口ごもり始める。そわそわと浮足立ったような素振り、額にはじんわり汗が浮かべ、如何にも緊張している様子である。
 何か大声では話せない事情があるのだろうか。
 職業柄の勘と言うよりも、自分の出世欲のようなものが、この時の判断を誤らせたのだろう。俺は特ダネのタレコミではないかと勝手に思いながらその男に歩み寄ってしまった。
 その直後の事だった。
「うわああっ!」
 突如男は表情の歪んだ顔を上げると、金切り声と共に俺に向かって突っ込んできた。
 驚いた俺は慌てて横へ飛び退く。その際に俺と男の足がぶつかり、互いに向かった方へ転倒する。唐突に起こった出来事に戸惑いつつも、すぐに俺は落とした鞄を取り立ち上がった。男の方を見ると、男は前のめりに転倒してどこか打ったのだろうか、もぞもぞと体を震わせたまま未だ立ち上がっていなかった。関わり合いになりたくはなかったが、此処には衆人の目がある。俺は男を気遣う素振りを見せながらゆっくり近づいた。
「あの、大丈夫ですか?」
 声をかけてみるが、男は背を向けたまま以前として起き上がらない。処置に困り周囲に視線を移すと、通り合わせた人や出社してきた社員達が遠巻きに俺達の様子を窺っているのが見えた。如何にも面倒事には関わり合いたくない、そんな表情をしている。重ね重ね、本当は自分も関わり合いにはなりたくないのだが、衆目がある以上は記者が市民をなおざりにしたという噂が広まっても困る。
「どこか怪我をされましたか? でしたら、救急車を呼びますけど」
 なかなか起き上がらない男に多少苛立ちを覚えつつ、出来るだけ親切な口調を意識しながら声をかけ、様子を窺おうと側に屈む。
 俺が屈んでもう一度声をかけようとした、まさにその時だった。今までもぞもぞと体を動かすばかりだった男は突然と機敏に身を翻し、腹の方へ収めていた右手を俺に向かって振り上げる。手が顔に当たると思い驚いた俺は、咄嗟に体を退かせそのまま尻餅をついて倒れる。男の手が触れたか触れないか、その時だっただろう。俺の左目から頬にかけてから、さくりと霜柱を踏むような音が聞こえた。
「えっ?」
 俺はすぐに状況が理解出来ず、間の抜けた声を一言こぼした。最初に気付いたのは、自分の左目が外気に触れた感覚を歯の奥を削るような鋭い痛みと同じように感じた事だった。咄嗟に顔の肉を左半分、ぎゅっと中央へ集め、上から左手で強く押さえる。その左手には、ぬるりとした生温いものが同時に触れた。激しい勢いで血が出ている。まず分かったのはそこまでだった。
 一体どういう事なのだろうか。周囲から悲鳴や怒声が次々と上がり、場の空気が騒然となっていく中、俺は尻餅をついたままぼんやりと考えていた。何か危険が押し迫っている。それは分かってはいるのだけれど、あまりに予想外の出来事で頭がうまく回らず体もついていけなかった。
 男はゆっくりと立ち上がり、尻餅をついたままの俺をじっと見下ろす。顔を真っ赤に紅潮させ、興奮でよだれの交じった口元からは頻繁に呼気を漏らし、血走った目で鋭い眼光を唸らせる。それはとても尋常な様ではなかった。明らかに俺に対して怒りを向けている。それは、今振り上げた右手に一振りの包丁が握り締められている事で、より確実なものとなった。
「おい、俺が誰だか分かるか!? ああっ!? 俺が、誰なのか!」
 唾を飛ばしながら激高する男の問いに、俺は首一つ動かせずに座りつくしていた。初対面の男など到底分かるはずがない。ましてや向こうでさえ、こちらの名前を確認する程だったではないか。
 赤の他人同士で何の諍いが生まれるのだ? 通勤途中に突如包丁を突き付けられるような事態を前にして、俺は未だにそんなずれた事を考えていた。
「待て、貴様! 何をしている!」
 この騒ぎを聞き付けたのだろう、玄関前やビルの中から大慌てで警備員達が駆け付けてくる。すぐさまその男を羽交い締めにし組み伏せる一方で、負傷した俺の様子を窺い無線で救急車の手配をする。茫然自失とする俺は、訊ねられた事にはいとかいいえとか短く答えるばかりだった。
 取り押さえられた男は抵抗らしい抵抗もせず、あっさりと手にしていた包丁を自ら放り捨てた。けれど、依然として顔は上げて俺を睨み付けるその表情は険しく、決して取り押さえられた事で観念したという訳ではないようだった。
「お前のせいで……お前さえあんな事を書かなきゃ……!」
 男は血走った目に涙を浮かべながら、いつまでも俺を睨みつけていた。俺はそんな男の表情を、警備員に引き離される間残った右目でただひたすら眺め続けていた。