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 翌朝、俺は人目を盗むような足取りにサングラスを付けて会社へ向かった。昨日の今日で眼帯とガーゼが残る顔は嫌でも人目に付くので、それを少しでも目立たないようにするのと、自分がマスコミにとって格好の餌食になる事を良く自覚しているからだ。少し前にも似たような心境で出社した事があったものの、今回はその時の比ではない。道端で擦れ違う人が皆、自分を注目しているような気になってならなかった。
 会社の表にはカメラやマイクを構えた連中がたむろしている。俺や俺に近しい人を掴まえて、反響の大きそうな映像を撮りたいのだろう。広義では同業者ではあるのだけれど、自分はあそこまで低俗ではないから一緒くたにしないで貰いたい、と唾棄したくなる。ただ、実際にそれを叫んだ所で俺には説得力も何もないのだけれど。
 前もって連絡しておいた通り、裏手の夜間窓口から社屋へと入る。中にはマスコミの人間はいないのだけれど、此処は此処で社員の目が気になって仕方なかった。サングラスをしたままでは怪しまれるからと外しはするのだけれど、それでは顔左半分を覆っているインパクトが隠せない。そんな自分の風体と、外のマスコミに辟易しているであろう人達が、一体俺をどう繋げてどんな事を思うのか。想像しただけでも肩身の狭い思いである。
 俺の所属する生活文化部はビルの六階にあり、階段を登るには些か高い階層である。けれどエレベータホールで皆に混ざってエレベーター待ちをするのは居心地が悪く、入社以来初めて階段で向う事にした。怪我もあるし体力自慢という訳でもない自分には決して楽な道程ではないが、人の視線にさらされながらエレベーターに乗る事に比べたら遥かにましと呼べる。
「おはようございます」
 オフィスに入ると、まだ時間も少し早いせいか人の姿はまばらだった。生活文化部は緊急性のある報道とは程遠い部署で、ほとんどの社員が定時に出社し帰宅する、普通のサラリーマンに近い部署だ。終日緊張感とは無縁の、俺にとっては閑職とも呼べる部署である。普段社員は間際の時刻になってから一斉に出社してくる。十五分二十分も前に来るのはむしろ早い部類と言えるだろう。
「蘇我、ちょっと来い」
 自分の席にカバンを置くなり、デスクが俺を呼びつけた。デスクはいつも一番最後に出社して来るのだから、普段より早く来た俺よりも先に来るなどとても珍しい事だ。それだけに、呼びつけた要件の事を想像すると、普段は温厚で陽気なデスクの表情は念頭から消えた。
 デスクは俺を奥にある小さな会議室の中へ促した。そこに二人きりで篭ると、俺達の会話は外に伝わらない。やはりそういう話か。俺の緊張感が更に高まる。
「今朝、お前の処分が決まったよ」
「随分早いですね」
「それだけ迅速な対応が必要なのさ。報道機関が世間でどれだけ悪印象を持たれているか分からんでもないだろう? それに、今回はただでさえ事情がややこしい」
 そう溜息をつくデスクの表情は固い。何がどうややこしいのかは分からないが、とにかくそれだけ深刻な状況なのだろう。デスクがこういった表情をしたのを見るのは、配属されて以来初めての事だ。
「以前、お前が社会部に頼み込んで掲載して貰った記事があるだろう? 内容は覚えてるな。その後の事件の事も」
「はい……。いや、その節は申し訳なかったとしか言えません」
「それを言うべき相手は俺じゃないだろう。まあいい。簡単に忘れられるような事でもないしな。それでだ、お前を襲った犯人の身元が分かった」
「犯人が? どこの誰なんです」
「あの事件の、被害者の父親だよ。不用意な記事を書いた奴がどうしても許せなかったそうだ」
 口の中に溜まった粘る唾をゆっくりと飲み込む。頭の毛穴が開き嫌な汗が滲んでくるのが良く分かった。あの男の事はずっと考えていたが、どうして俺を襲ったのかこれでつじつまが合った。要するに、起こるべくして起こった事だ。
「あの……その記事の件ですけど。処分が終わってからでもいいんです。再取材やらせて貰えませんか?」
「再取材?」
「あれは自分の甘さが招いた事件なんですから、今度は正確な記事を書いてきっちりけじめを付けたいんです」
「だから、また生活文化部が社会部に頭を下げろ、と?」
 じろりとデスクが威圧感を込めた目で睨みつける。普段はまず見せる事の無い固い表情に、俺は思わず怯みそうになった。
「いいか、蘇我。あの記事は特例中の特例だ。何故認められたのかは分かるだろう?」
「それは……分かりますが」
「それにだ。お前の書いた記事と、あの事件との因果関係は何も証明されていない。警察がそういう見解を公式に出していない以上は、我が社もそういう見解だ。記事を書いたお前には何の責任も無い。あの男は勝手な解釈をして暴走し、全く無関係な生活文化部のお前を逆恨みで襲った。今回の事件はそういう事にする」
「そういう事にするって、あれはどう考えても俺の記事が原因じゃないですか!」
「もう決定した事だ」
「事実を曲げるんですか!?」
「因果関係を証明出来ないなら、これが事実だ。第一、今更それを証明したことで誰が得をするんだ? お前を襲った男は、どう弁護した所で無罪にはならないぞ」
 証明できないからと言って、事実が変わるはずはない。ただの信憑性の問題である。事実とは損得で変えるようなものではない。それは間違いなく正しいのだが、その損の部分を被るのが自分だけならともかく他の人間もなのだと思うと、そこで気が引けてしまった。少なくとも、デスクは社の役員などから目をつけられ責任を取らされてしまうだろう。流石にそれを強要する事は出来ない。
「さて、本題に入ろう。お前への処分だがな、来週から出張取材をして貰う」
「出張? 処分が?」
「それでだ。幾つか候補を考えたんだが、奥之多町って知ってるか? まあ知らんだろう。ローカル線が日に八本通ってるだけの、コンビニも無い山奥の田舎だ。そこで一風変わった祭りをやってるそうだから、それを書いて来い」
「いや、ちょっと待って下さい、それのどこが処分なんですか?」
「お前が書いた記事は、掲載出来るものかどうかは問わない。取材して記事を書いたという実績さえあればいい。簡単なもんだろう?」
 やや語気を強めて問うデスクは、露骨に承諾を強要している。そうする事が一番賢いと言わんばかりに聞こえ、再び俺の中に反抗心が膨れ上がってきた。しかし、それの向け先など無いのだから、何とか理性的になる事を言い聞かせて抑え込む。
「……要するに、ほとぼりが冷めるまで大人しくしていろって事ですね。業務命令があれば勝手な取材も出来ないし、ましてそんな田舎なら雲隠れするにはうってつけですから」
「分かるなら、いちいち口に出さなくともよろしい。いい加減お前も自分の立場を考えろ。何でも好き勝手やっても許されるんだろうが、それにも限度って物があるぞ。ちょっとは頭を冷やしたらどうだ。寛大な処分で嬉しいじゃないか」
「しかし、俺は正しい記事を書いて公正な報道をしたいんです」
「それは社会部の仕事だ。お前はどこの人間だ?」
 そして、そこに部外者が首を突っ込んでこんな騒動を引き起こした。デスクがそう言いたげに見えるのは、俺の勘繰り過ぎだろうか。なんにせよ、自分が部外の事に固執している事は良く分かった。
「せめて、怪我が良くなるまでは大人しくしていろ。お前は俺とは違って、将来が約束されてる身の上なんだから。つまらん意地を張ってふいにするな」
「分かりました……そうします」
「ああ、そうしろ。あの記事の事も、もう忘れた方がいいぞ。これ以上こだわった所で、お前にとっては何にもならない」
 それが簡単に出来るなら苦労は無い。
 事件への固執は捨てられても、きっと社会部への固執までは無理だろう。初めから引き離されてしまっているのであれば、尚更だ。
 自分の信念を曲げるような言葉を口にするのは心底嫌だったが、自分一人が我を張っても大勢が困るだけだ。それを考えると、此処は折れるしかない。そんな結論に至るには、さほど時間はかからなかった。