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 奥之多町という場所は、東京駅から新幹線で半日ほど北上し、それからローカル線を二つ乗り継ぎ、最後にタクシーで三十分ほど走ってようやく到着した。距離もさる事ながら交通の便も悪く、朝一番で出たにも関わらず指定の宿に着いたのは夕方過ぎだった。今まで取材と言えば都内近郊で、時折出張があったとしても地方都市だったから、これほど絵に描いたような田舎町には、その不便さに思わず辟易してしまった。老後はともかく、今のような一分一秒を意識する歳で定住するなど到底考えられない。
 宿はこの町で一軒だけしかないという古い民宿だった。タクシーから降りてまず目にした外観は、お世辞にも綺麗だとか伝統的だとかポジティブな言葉は浮かぶようなものではなかった。もうちょっとましなビジネスホテルは無いものかとも考えたが、この民宿はデスクの紹介であるだけに今更変える訳にもいかず、仕方なく中へ入って行った。
 玄関は古びた外観に比べやや小綺麗な内装ではあったが、柱の角のへこみや床板についた無数の擦り傷など、建物自体の古さは否めない。しかし所々増改築でもしたのだろうか、全体的な雰囲気は和風なのだけれど僅かに現代風な部分もあり、ちぐはぐな印象を受ける。それが、まるで普通の民家の玄関のように思わせた。
「こんばんわ、東京から来た蘇我という者ですが」
 ホテルのようなフロントがある訳でもないので、取り合えず俺は奥に向かってそう叫んでみた。しかし、二度三度と繰り返してみたものの、一向に誰か現れる気配が無い。鍵は開いていたし、電気もついている。誰もいないようには思えないのだが。
 念のためデスクに確認してみようかと、胸ポケットの携帯へ手を伸ばしかけた時だった。
「あら? どちらさん?」
 突然背後から声を掛けられ振り返る。そこには発泡スチロールの箱を抱えた小太りの中年の男が立っていた。妙に魚臭いのは、おそらく箱の中身が生魚なのだろう。
「あの、今日からこちらでお世話になる蘇我という者ですが。大原さんですか?」
「ああ! 三浦さんとこのでしたね。聞いておりますよ。わざわざ東京から来て頂いて。さあさあ、どうぞ。上がって下さい」
 にこやかに中へと促す彼が、どうやらこの民宿の主らしい。所用で出掛けた所にたまたま出くわしたのだろう。ともかく、そのまま行き違いにならなくて良かったのか。
「話は伺っておりますよ。うちの夏祭りを取材したいとかで。まあ、この通り何も無い田舎ですけど、ゆっくりしていって下さい」
「はい、お世話になります」
 大原氏に案内されたのは、建物の二階にある一室だった。調度玄関の真上に位置するその部屋は思っていたよりも広く、畳もまだ真新しくてい草の香りが僅かに残っている。内装はそれほど昔ではないぐらいに直したのだろう。ここの真新しさがやけに際立っているように思う。
「お食事は何時にお持ちいたしましょう? うちは七時からになっているんですけれど」
「じゃあ七時でお願いします」
「承知しました。あ、それと後から宿帳持って来ますんで、そちらに記入お願いしますね。ではごゆっくり」
 大原氏は深々と丁寧に頭を下げ部屋を後にする。田舎町の民宿や旅館など、もっと朴訥で形式張った素振りとは無縁のものだと思っていたのだけれど、大原氏の物腰はまるで老舗旅館のそれを思わせる丁寧さがあった。生まれ持った気質なのか、それとも以前そういった所に勤めていた経験があるのだろうか。ともかく、思っていたよりも気持ちの良い対応なのは確かである。
 食事までまだ時間はあるが、初めての町を散策するほどでもない。今日は移動だけでくたびれた事だから、今夜はこのまま部屋でゆっくりする事にした。もっとも、社も俺の出張はただの雲隠れぐらいで決めた事だから、明日から取材をするにしてもあまり力の入る仕事には思えない。体を休めた所で、記事には何も反映はされないだろう。どうせただのほとぼり冷ましである。一週間ほど気楽に過ごそう。そんな事を思いながら、俺は荷物を置いて畳の上へ寝転がった。
「あ、そうそう。蘇我さん、ちょっとよろしいですか?」
 ふと、今出て行ったばかりの大原氏が突然部屋へ戻ってきた。いきなり何事かと驚いて飛び起きた俺のすぐ脇に、大原氏は神妙な面持ちで正座し声を潜めながら話し始めた。
「すみません、蘇我さんの事なんですけれど。東京から祭りの取材で来たというのは内緒にして貰えませんか?」
「内緒ですか? それはまたどうしてです?」
「ほら、何分こんな田舎町でしょう? 東京からわざわざ取材さ来たなんて知れたら、大騒ぎになって祭りどころじゃありませんから。ですから、新幹線で下りた駅があるでしょう? あの辺りは連山町というのですが、そこの雑誌記者とだけ言って誤魔化して戴ければ大丈夫ですから」
 大原氏の申し出は何とも奇妙なものである。確かに東京の新聞記者がこんな田舎町へ取材に来たと知れば、それは町中大騒ぎになってもおかしくはないだろう。しかしそれは、町おこしの意味合いを含めた好意的なものになるはずである。町おこしの種は積極的に宣伝して欲しいから、むしろ取材に来て貰いたいと思う町の方が多いものだ。それをわざわざ隠すのは、果たしてどんな事情があるのだろうか。
 いまいち納得のいかない申し出ではあったが、そもそも今回自分は社命で雲隠れに来ただけである。形式上取材はするものの、その記事は必ずしも紙面に載るとは限らない。町の人々を下手にぬか喜びさせるよりかは、初めから身分を偽っておいた方が後々角が立たなくて良いのかも知れない。それに、下手に目立って野次馬根性の別な同業者をこの町へ呼び寄せる事もないだろう。
「分かりました。それなら、そういう事にしておきます。私も訳ありの身分ですし、あまり目立ちたくないものですから」
「三浦さんから伺っておりますよ。大丈夫です、その辺りの事情を知っているのは私だけですから。そこは気兼ねなく」
 大原氏は人の良さそうな表情でにっこり微笑み、ごゆっくりどうぞと言い残して部屋を後にした。
 良くは分からないが、大方デスクが気を回しておいてくれたのだろう。それはそれでありがたい事ではあるのだけれど、それは俺にこの田舎町でゆっくり休んで頭を冷やせと重ねて厳命しているようにも受け取れ、どうにも素直に応じる気持ちにはなれなかった。どの道そうするしかないのではあるけれど、ただ黙って納得の行かない指示に従うのは、やはり面白くはないものである。