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 荷物を片付け大浴場で汗を流すと、急に体がだるくなり何をするにも面倒な気分になった。移動の疲れが出ているのだろうと思ったのだけれど、普段の取材で奔走する時はこの程度では何とも思わない。やはり気が緩んでいるのだろう。若しくは、今の状況に落胆し気力そのものが失われているかだ。
 部屋に戻ってからしばらく汗が落ち着くのを待ち、洗面所で風呂で湿った眼帯とガーゼを変えた。鏡で自分の顔を見ると、普段は覆われている顔左半分には、未だに赤黒いくっきりとした線が浮かんでいた。眉の少し上から頬の下まで、一直線に引かれている。抜糸が済んだばかりで表面が癒着していないから目立つせいもあるが、それ以上に傷が自分の左目までに達している事に改めてショックを覚えた。片目だけでの生活は慣れては来たけれど、一生このままというのはあまりに受け入れ難い。これはあくまで一時的なもので、左目はいつか必ず治る。そう自分に言い聞かせて落ち着かせようとするのだけれど、このあまりに大きな傷跡がいつもその希望に縋る事を躊躇わせる。
 眼帯とガーゼを変え終えて程無く、大原氏が夕食を運んできた。横長の大きなお膳の上には、尾頭付きの刺し身や焼き物が並んでいた。奥之多町は比較的内陸に位置しているはずだけれど、港からの交通が良いのだろうか。新鮮そうな海産物がふんだんに盛り込まれている。
「蘇我さん、ビールは如何ですか?」
「戴きます。調度喉が渇いていた所ですから」
 大原氏にビールを注いで貰い、ぐっとグラス一杯を一息に飲み干す。ビール独特の香気が鼻を抜け、痺れるような炭酸の刺激と冷たさが喉を下って行くのが分かった。風呂上がりには何とも堪えられない快感である。
「このビール、普通のとは違いますね」
「ええ、地元で作っている、所謂地ビールという奴です。一時期ブームに乗っかって、東京の方にも出荷していたそうなんですけどね。不況の煽りを受けて、今はここら辺だけで細々とやっている感じです」
「いやあ、でもうまいなあ。ここでしか飲めないってのは勿体ないですね」
 そんな事を言いながら、ふと俺は以前自分が地ビールのブームについて記事を書いた事を思い出した。製法や材料、宣伝キャラクターなど、独自の地方色を既存メーカーとの違いとして書いていた。しかし実際の所は、特に有名な地ビールを幾つか飲んだだけで後はカタログを資料にし、ほとんど憶測で間に合わせて仕上げている。大して興味を持っていなかった地ビールを、今こうしてじっくりと味わうなど思いも寄らなかった事だ。
「ところで、例のお祭りについて何ですけれど。私、全く予習もせず不勉強なままで来ていまして。それで、これはどのようなお祭りなんでしょうか?」
「地元の八幡様をお祭りする、どこにでもある夏祭りですよ。まあ、年寄り連中なんかは昔から死人祭りなんて呼んでいますけどね」
「死人ですか? 随分おどろおどろしい響きですね」
「祭を開くのはお盆の時期だから、死んだ先祖の霊魂も帰ってくるでしょう? それで、生前を懐かしんでこっそり祭に参加して遊ぶんだそうですよ」
「故人が祭に混ざるという事ですか。神様が混ざるというのは聞いた事がありますが、死んだ人というのは初耳ですね」
「なので、この辺りでは先祖の霊魂は家に帰るというよりも住んでいた町そのものに帰るという感じですね。ですから、迎え火も玄関に焚いたりしないで、町中に蝋燭や行灯を飾るんです。もっとも、今は外で出しっ放しの火は使えないので電球になってますけれど」
「行灯とはまた風流ですね」
「ええ。大人も子供もみんな和紙に絵を描きましてね、それを飾る訳です。祭の間は外灯も消しますから、なかなか見応えのある景観ですよ」
 祭と言えば、どちらかというと赤提灯に黒い墨字で祭と書かれたものを連想する。それをはっぴ姿の男達が掲げているのが、俺の想像する祭だ。それがこの町では行灯に代わっているというのだから、その光景を想像すると何やら興味深く思えてしまう。
「そうそう、忘れてました。ちょっと待っていて下さいね」
 不意に慌ただしく退室し再び戻って来た大原氏。一緒に持ってきたのは白い能面だった。翁や般若なら知っているけれど、その面はそういった有名なものとは違う形状をしていた。能に詳しい人なら正式な名前や役も分かるかも知れないが、俺には単なる端役用にしか見えなかった。
「祭りは明日からですからね、外出される時はこれを付けて下さい」
「付けると言いますと、これを付けて外出するという事ですか?」
「その通りです」
「ずっとですか?」
「ええ、ずっとです。まあ、中には付けない方もいますけどね。みんなは大抵仕事に差し支えない範囲でつけてますよ。乗り物を運転する時ぐらいですかね。お店でも普通につけたまま接客しますよ」
 ならば、明日町に出れば、行き交う人やお店の店員など皆何かしらの面を付けているのだろうか。コンビニに入ると店員が声をかけるのは常だけれど、その店員が般若を被っていたらと思うと、きっと俺はぎょっとして立ち尽くしてしまいそうだ。
「どうしてみんな面を付けるんですか?」
「帰ってきたご先祖様は皆、自分だと分かられる事を嫌がるんですよ。なんせ、もうあの世の人ですからね。死に化粧もしていますし。そこで、みんなして面を付ければ誰が誰だか分からなりますから、ご先祖様も面を付けるだけで目立たず安心して祭りを楽しむ事が出来るんです」
「自分が死人である事を騒がれずに済むって事ですね」
「そういう事です」
 面をつけて外出するなど、幾ら風習とは言っても少しばかり抵抗感がある。東京でそんな真似をすれば、間違いなくお巡りさんがすっ飛んで来るのだ。しかし、この町の祭とはそういうものだそうだし、ついでに顔の怪我も隠せて目立たなくなるのだから、俺にとっては都合は良い。
 それにしても、この風変わりな風習に自分がますます興味が沸いて来るのが分かった。純粋に取材するのが面白そうな気になって来る。どうせ採用されるかどうかも分からないのだから、記事は適当に上げようと思っていたのだけれど、採用など無関係に一つ真面目に取材して書いてみようかと思わずにはいられなかった。