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 時刻が正午を回り町内放送が流れ始めると、俺は今日の昼食をどうするか考えていなかった事に気が付いた。普段なら別段悩むまでもなくどこか飲食店を探せば済む話なのだけれど、今回はそういう訳にもいかない。今俺は能面を付けていて、食事の時はこれを外さなければいけない。そうすると、必然として眼帯やガーゼを着けた顔が悪目立ちしてしまうのだ。この町の者ではないと思われるのならまだしも、つい先日新聞やニュースで取り上げられた事件の被害者だと気づかれるのは何としても避けたい。
 空き腹を抱えて歩きながら考えていると、ふと商店街の一画に持ち帰り専門の弁当屋があるのを目にした。個人で経営しているこじんまりとした店だけれど壁に貼ってあるメニューは意外に多く、その内容もシンプルだが食欲をそそる物ばかりだった。ここで弁当を買って一旦宿に戻るのが一番目立たないだろうと思いついた俺は、早速弁当を買いに店の前に並んでいる列の後ろへ続いた。弁当は注文を受けてから店内で作るらしく、並んでいるここまで調理の香ばしい香りが漂ってくる。カウンター越しに中の様子を窺うと、やはり能面を付けた人達が油で揚げたり容器に御飯を詰めたりしている。何ともおかしな光景だけれど、朝からそんなものばかり見てきたせいか、既に俺は慣れてきた。
 ようやく自分の番が来ると、俺はメニューの中から唐揚げと紅鮭が入った物を注文する。店員は早速調理に取り掛かり、俺は列から少し横にずれて出来上がりを待った。俺の後ろには既に数名の順番待ちが出来ている。そのいずれも能面をつけており、当たり前に見えつつある光景が何だか可笑しくなってきた。
 やがて出来上がった弁当を受け取り代金を支払うと、早速パンフレットの地図を頼りに宿へと向かった。思ったよりも歩いていたらしく、調度宿とは正反対のかなり遠い所まで来ていた。普通に歩いたらおそらく、到着には十五分から二十分はかかるだろう。弁当が冷めて、湿気でぐちゃぐちゃにならないだろうか、それが気掛かりだった。
 しばらく歩いていた時だった。ふと町中の一画に鬱蒼と木々の生い茂る小山を見つけた。中心からこれぐらい離れていると、もう未開発の所に当たるのだろうか。そんな事を思いながら良く見ると、調度麓の辺りに鳥居が建っているのを見つけた。どうやらこの上に神社があるようである。
 何となく興味を持った俺は進路を変え、鳥居を潜り石段を登って行った。石段はさほど高くはなく、五十段も登らない内に拝殿が見えてきた。本殿と拝殿は続きになっているのか、ここからは見えない。他は社務所と小さな脇殿が一つと、とても小さな神社である。それでも参拝客は多いのか、社務所の側には手製と思われる休憩用の木の板のベンチが三つ囲むようにあった。
 他に人影も無い事だし、ここで昼食を取る事にしよう。
 そう思い付いた俺は、早速ベンチに腰掛けると能面を頭までずらして弁当を食べ始めた。買ってきたばかりの弁当はまだほんのりと温かさを残し、湿気で型崩れも起こしていない。おかずの並び方は雑多であまり見映えは良くなかったものの、味そのものは悪くは無く飽き難いものだった。これなら毎日食べてもいいだろうと思える。
 日中の日差しは高い木々に遮られているものの、日中の気温は夏らしい。東京よりはずっと楽ではあるが、普段から空調の効いた所ばかりにいる俺にはいささか暑すぎる。今は静かだが、その内セミが大合唱するのではないかと想像すると、東京の方が静かで涼しい場所が多いから、遥かに過ごしやすいと思える。早く食べ終えてどこかで涼みたい、そういう思いが箸を急がせる。
 額に汗を浮かべつつも想像していたよりずっと旨い弁当に満足しつつ、何か飲み物をあらかじめ買っておくべきだったと今になって気づいた、そんな時だった。
「あの……」
 突然声を掛けられ、驚いた俺は慌てて弁当を脇に置き能面を付け直す。だけどまだ口の中に物が入ったままで、早く飲み込もうと必死で口を動かした。
「あ、驚かせてすみません。ごゆっくりどうぞ。ただ、ゴミだけは持ち帰って頂きたいので。カラスが集まって来ますから」
 振り向いた先には、普段着姿の一人の女性が立っていた。無論、ご多分に漏れず能面で顔を隠している。神社の人だろうか。声と体格からして、まだ若い女性のようである。ただ一つ、彼女がやけに不気味な能面を付けているのが気になった。頬が痩せて青白く、目付きも生気がない。まるで亡者のような、無気力で怨みがましい顔の女面である。どういった役割の能面かは分からないけれど、賑やかな祭りにはあまり似つかわしくないように思う。
「いえ、こちらこそ勝手にお借りしてまして。ゴミはちゃんと持ち帰りますよ」
「それだけはお願いします」
 いささか口調が厳しい所を察するに、ここはそもそも飲食をして良いような場所では無さそうだ。田舎なら外で自然を楽しみながら食事をするものだとイメージを持っていたけれど、やはり駄目な場所は駄目なのだろう。俺はまだ弁当は途中だったものの、さり気無く後を片付け始めた。
「もしかして、奥之多町は初めてですか?」
「何故です?」
「言葉に訛りがありませんから。それに、人の少ない町ですから。能面を被っていても、大体どこの誰かぐらいは分かります」
 という事は、今まですれ違った人達も皆、俺がこの町の人間ではない事くらい気がついていたのだろうか。誰も指摘しないのは単にそうするだけの理由がないからかも知れないが、内心物珍しそうに見られていたかもしれない。
「実は仕事で来ているんです。祭の取材で。連山町から来ました」
「そうでしたか。雑誌記者か何か?」
「ええ、まあ一応」
「記者さんがこの町にいらっしゃるのは初めてです。大した物はありませんが、ごゆっくり」
「これはどうも、ご丁寧に」
 そう仰々しく言うはするものの、彼女の声は抑揚に乏しく慇懃無礼な印象だった。勝手に敷地内へ入って弁当を食べるような人間だから、単に歓迎されていないのだろう。もしもあの能面の下を見る事が出来たら、きっと冷ややかな眼差しが見られるに違いない。
 あまり長居をしない方が良さそうと判断した俺は、話もそこそこにこの場から早足で立ち去った。