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 宿に戻ったのは夕暮れよりも少し早い時間だった。祭が始まるのは夜からで取材はそこからが本番なのだが、その前に一旦今日見知った事をまとめておくためである。
 自室に戻ると早速荷物からノートパソコンを取り出して起動する。いつも使っているフォーマットファイルに日付と場所をつけ、後は記憶と手帳の走り書きを頼りに思い付くまま自由に打ち込む。普段から体裁はさほど意識してはおらず、推敲していく中で徐々に出来て行くままに任せている。そして締切が見えて来る頃に、これを資料として原稿を作り上げるのである。最初の作業は、どちらかと言えば一時メモを電子化するだけに近い。
 能面を付ける決まりや町中に設置された行灯、祭りの始まったの由来など、押さえておきたい点は無数にあった。それらを思い付くがままに、ひたすらファイルへ打ち込む。今回の取材は当初の予想よりも書き留めておく事が多かった。まだ祭り自体始まっていないのに、これだけ原稿のネタに出来る事が集まっているのも珍しい事である。
 小一時間ほど掛けて留めておきたい事もあらかた打ち込み終え、一旦何か冷たいものでも飲んで小休止を取ろうかと思った時だった。不意にテーブルの上に放っておいた携帯が鳴り出す。すぐに取って画面を見るとそれは伊藤からだった。
『よう、ゆっくり休めてるか?』
「一応仕事だぞ。出張取材」
『なに? もしかして真面目に取材してるのか?』
「そうだよ。悪いか?」
『先日お前と飲んだ時、取材なんかやってられるかって叫んでたからよ。てっきり、のんびりと田舎の空気でも吸ってるのかと思ってたぜ』
「そんな事言ったか? 俺」
 確かに伊藤と飲んだあの晩は、社の処分の事で荒れて酷い飲み方をしていたから、正直あまり記憶が無い。自分のやりたい取材とは別の取材を命令された直後だから、そんな事を口走っていてもおかしくはないだろう。
「まあ、意外と面白いもんだよ。祭りの期間中は、町民がみんな能面つけて生活するんだぜ。俺も今日はそれでずっと外出してた」
『なんだ、そりゃ。随分とまあ変わった所にいるもんだな。で、今はどこいるんだ?』
「奥之多町ってとこだ。言わなかったか?」
 何気なく答えたその時だった。電話口の伊藤から、微かに驚きの声が一つ発せられるのが聞こえて来た。
『お前……何でそんなとこ居るんだ?』
「そんな所って、うちのデスクに行けって言われたからだよ。それがどうかしたか?」
『ああ……いや、なんでもない。とにかく、お前の処分は公にはなってないからさ。どこに出張したとか知らなかったんだよ』
「名目上は単なる業務命令だからな」
『社内に噂を延焼させたくないだろうしな。ところで、今日は何か変わった事はあったか?』
「変わった事? 変わった事だらけだよ。コンビニは無いわ、車通りはないわ。揚句、喫茶店の店員がおかめだぜ」
『いや、そうじゃなくてさ。うん、まあ何も無いんならいいんだけどさ』
「何だよ、歯切れが悪いな」
『何でもねえよ。ほら、それにさ。俺もデスクからあんまり生活文化部に肩入れするなって釘刺されてるしさ』
 それは、生活文化部か俺か、それともその両方に関係する事を、社会部として押さえたネタがあるという事なのだろうか。少なくとも伊藤は奥之多町の名前を知っているようである。真っ向から訊ねてみたいが、伊藤の口調からしてそれはおいそれと言えるようなものでもないようである。訊ねるだけ伊藤が困るだろう。俺はあまり首を突っ込まない事にした。
「まあ、その、なんだ。お互い大変そうだな」
『そういうこった。んじゃ、そろそろ仕事戻るわ。何かあったら連絡しろよ』
「ああ、分かった」
『絶対だぞ。それと、ちょっとでもおかしいと思ったら逃げるんだぞ』
「はあ? なんだよそれ」
『とにかく、そういう事だから。じゃあな』
 伊藤はこちらの問いに答えず、一方的に電話を切ってしまった。急かされているというより、あまり俺に突っ込んでは欲しくない言い草である。なら、何故わざわざ訊かれそうな事を口にするのか。伊藤の行動は全く訳が分からないものである。
 時間も頃合いである。そろそろ祭りの取材に出掛ける準備をしなくてはならない。社会部の仕事をする伊藤の忙しさに幾分か嫉妬しつつも、切れた携帯を閉じてテーブルの上へ置いた。
 ノートパソコンを閉じ、テーブルの上に散らかった書類やら筆記用具やらを片付けていると、部屋の外から呼ぶ声が聞こえてきた。
「蘇我さん、いらっしゃいますか?」
 聞こえて来たのは大原氏の声だった。
「どうぞ、開いていますよ」
 現れた大原氏は、どこかで出掛けていたのだろうか、作業着らしい薄汚れたシャツを着ただけの姿だった。
「今日の夕飯は如何がなさいましょうか?」
「先に祭りへ行こうと思います。何時ぐらいまでやるのでしょう?」
「そうですね、今日は初日ですから、最初は開会式をやりますね。でも、後は特にこれと言って何もありませんよ。まあ、個々に集まって、宴会ですとか外で騒いだりはします。そんな感じで一週間続くだけですね」
「そうなんですか。まあ取り合えず、取材へ先に行きます。九時ぐらいには帰って来ますから、食事はそれからで」
「承知しました。もうお出かけになりますか?」
「ええ、もう間もなく」
「私はにずっとおりますので、お帰りは正面口でどうぞ。鍵を開けておきますので」
 大原氏が部屋を後にし、それからさほど間を空けず俺も準備を整えて出掛けた。
 ふと出掛けに、電話での伊藤の言葉が気になった。どうしてこんな所に居るのか、危なくなったら逃げろとか、まるで俺が治安の悪い危険な町にでも居るかのような言い草である。日中出歩いた限りでは、とてもそんな危険な町には思えなかった。田舎と言われて良く想像する、のんびりとした雰囲気である。ましてやこの時代の日本で、山賊や押し入り強盗などまずあるはずがない。田舎だから怪しげな呪術でも横行しているとでも思ったのだろうか。
 何にせよ、ここへ行くように命令したのはうちのデスクである。あまり気にすることもないだろう。今一番大事なのは、俺が再び要らぬ注目をされるような騒ぎを起こさない事だから、ただ社命として言われた通りに従っていれば良いのである。