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 日もほぼ沈み、辺りは少し先の視界すらままならないほどの暗闇に覆われた。東京ではこんな暗闇に困らされる事は無い。郊外の住宅地ならば必ず一定間隔で外灯が点いているし、都心に至っては外灯以前に建物から漏れる光やネオンのおかげで一晩中明るいままだ。
 奥之多町は辺鄙な田舎町ではあるが、外灯が備わっていない訳ではない。だが、実際の外灯を見てみるとどれも電気が灯っていなかった。その代わりとして、外灯の柱には行灯が取り付けられている。おそらく、行灯の明かりを引き立てるためにわざと外灯は消しているのだろう。それ以外にも、家から漏れる光は最小限に、店の看板はライトを消すといった、極力行灯以外の光を出さない配慮が見られる。また交通規制もしているらしく、車通りは無くみんな道路の真ん中を歩いている。
 薄闇の中を幾つもの行灯が点り道を示す光景は、何とも情緒的で思わず見入ってしまう美しさがある。そんな街中を行き交うのは、能面で顔を隠した者ばかり。昼間の閑散とした田舎町とは全く姿を変えた、不思議で現実味の薄い光景である。
 暗闇に目が慣れてきても、普段の歩幅で歩けるほど視界は楽にならない。視界が右目だけというならともかく、視界が狭まる能面を付けての夜道だから、行灯の明かりだけではどうにも頼り無い。俺は恐る恐る確認するような、腰の引けた歩取りで歩かなければならなかった。しかし町民の様子を見てみると、皆がこの薄闇や能面など気にも留めていない素振りで歩いている。子供などは自由にはしゃぎ回りながら歩いているし、腰の曲がった老人ですらさほど苦にはしていないようだった。おそらく、地元の人間は土地勘があるため、多少暗くともあまり問題ではないのだろう。
 それ以外にも町中の風景は風変わりな点があった。行灯を見て回っている人が行き交う中、道端で明かりを囲んで談笑に耽る人達を幾つか見かけた。それは特に男女や年齢を問わず、共通の話題などとてもあるようには見えない組み合わせすら見掛ける。理由は良く分からないが、おそらく祭りに関する事なのだろうか。
 そんな事を考えていた時だった。
「よう、そこの。ちょっと飲んで行けよ」
 交差点の一画にある小さな駐車場の前を通り掛かると、そこに陣取って談笑していた一団に呼び止められた。みんな漏れなく能面をつけて素顔を隠している。彼等の背格好や雰囲気からおそらく、俺と同じくらいから中年ぐらいまでの年齢層だろう。珍しく話題が共通しそうな組み合わせに見えた。
「俺の事ですか?」
「そう、あんただよ。業平面の」
 俺のつけているこの面は業平面と呼ぶらしい。学生の時に歴史の授業でそんな名前を聞いた覚えがある。平安の歌人だったか、歌仙の一人のはずだ。
 面の名前はさておき、彼らは間違い無く俺に向かって声をかけてきているようだった。一体見ず知らず同士で何の用事があるのかと不思議だったが、この徒党の理由をさりげなく聞き出すチャンスだと思い、俺は素直に応じた。
「さあさあさあ」
 近づくや否や有無を言わさずコップを持たされ、そこに一升瓶から酒を注がれた。コップの中の濁った液体の異様さと、その一升瓶がラベルを剥がされた明らかに再利用の物であると共に、蓋が縛った藁という雑なものである事もあって、この展開に思わずぎょっとしてしまった。甘さを残す香りは辛うじて酒らしいけれど、今までこういったものはお目にかかった事がない。
「あの、これは何というお酒ですか?」
「ああ、うちで作ったどぶろくだ。この間作ったばかりで、丁度飲み頃よ」
 つまり、密造酒という事だ。
 まあこれも異文化の経験の一つである。俺は少しだけ能面をずらし、一口口をつけてみた。見た目の濁り具合にそぐわず、意外にも口当たりはあっさりとしていた。味は甘めだがぴりぴりと痺れる発泡分があり、またアルコールの強い後味もしっかりある。若干米のような柔らかい感触の破片も混じっているから濁り酒の類のようだけれど、風味といい雑味といい癖はかなり強い。ただ、俺は比較的好きな種類の酒である。
 安心して飲めるものだと分かり、残りを一気に飲み干した。アルコール分はさほど強くないと思っていたが、それでも胃の中がかっと熱くなるのが分かった。あまり飲んでいると酔っ払ってしまいそうである。
「お、いいねえ。いけるねえ。もう少しどうだい?」
「戴きましょう」
 二杯目はゆっくりと味わう事にした。流行りとは明らかに逆行した、とても飲みにくい酒だと改めて実感する。如何にも地元ならではで愛されている酒と思う。ただ、これはあまり記事に出来るものではなさそうだ。密造酒の事を堂々と書くのは、後々に問題になりそうである。
「皆さん、今日はずっと此処で飲んでるんですか?」
「ああ、まあな。あんたで五人目か? こうして自慢の酒を振る舞ってる訳よ」
「こいつは毎年そうよ。この場所で片っ端から人捕まえてなあ。飲まなきゃ逃がさねえってよう」
「まあ、御先祖様だって盆には酒くらい飲みたいだろうさ。今日だって、もしかするとうちの祖父様が飲んでいったかもしれねえ。良い供養だ」
「お前さんは単に酒の出来を自慢したいだけだろうに」
 祭りを理由に、普段なら出来ない事をやっている。彼等からはそんな印象を受けた。見知らぬ人に酒を進める事は相手に警戒されがちで、とても理由無しにではやりにくい。祭と、面で顔を隠しているからこそ、こう大胆な事も出来るのだろう。
 しばらく彼らと取り留めない話をしながら酒を御馳走になった後、適当な所で切り上げ丁重に礼を述べて再び散策へ出た。
 酒を交わしながらの談笑は、結局は単なる世間話だけで終始した。懸念していた、こちらの素性を訊かれるような事は何故かされなかった。たまたまなのか、それともそういう暗黙の了解があるのか。少なくとも、明らかな標準語で他人行儀で喋る俺が、地元民では無い事ぐらいは気づいているはずだ。
 あくまで仮説なのだが、面で顔を隠した相手に素性を訊ねないのは、もしかすると夜這いの風習の名残りなのかもしれない。先祖云々は子供に対する方便で、実は後腐れない関係を持ったり血が濃くならないようにするための手段だったとしたら、この町での不思議な風習も納得がいく。
 明日辺り、そういった資料のある図書館にでも行ってみるとしよう。何か面白い事が分かるかもしれない。
 俄かに胸の踊るような楽しい気分になり、足取りがやけに軽くなっていった事に気がついた。あんなに嫌だった名ばかりの取材が楽しくなってしまっているのだ。それはきっと、空き腹に酒を飲んだせいだけではないはずだ。