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 やはり、土地勘のある地元の人の案内は心強いものがある。進むに連れて辺りの景色がどんどん明るくなっていくことに、偶然にも彼女と逢う事が出来て本当に良かったとつくづく思った。目に見えて行灯の数が増えていって間もなく、どこかで見たような通りに入り、能面を付けた人の往来や道端で談笑する一団を目にすると、ようやく宿へ戻れると心から安堵した。
「ところで、もしかして昼間にお会いになりませんでした?」
 そんな風に気を緩めていた時だった。前を進む彼女が唐突にそんな事を訊ねてきた。
「えっと、どこでしたでしょう? 何分、この町の人は皆能面を付けているので、同じに見えてしまって」
「八幡神社です。今日の昼間、敷地内でお弁当を食べていましたよね」
「あっ、ああ、はい。もしかして、あの時の?」
「ええ、そうです」
 言われてみれば、あの時の女性も確かに気味の悪い能面を付けていた。造形までははっきりと覚えていないけれど、とにかくインパクトだけはあった。昼間でもあれだけどきりとさせられたのだから、日が落ちた夕闇の中でならうっかり声を出してもおかしくはない。そう、先程の自分に一人弁解を施す。
「それにしても、良く俺だと分かりましたね。やっぱり話し方ですか?」
「それもありますが、そもそもこの町で中尉の面なんて付けている人は珍しいですから」
「中尉? ああ、これの事ですか。業平面とか言われましたよ」
「在原業平の事です。その面のモデルになった人物の官位が中尉なのです」
「そうなんですか。でも、どうして付ける人が珍しいのです? お面屋さんみたいな所に行けば、幾らでもありそうでけど」
「最近の方はあまり気にしませんが、昔は祭りで付ける能面には意味がありましたから。それで町には数が少なかったり人気の無い面もあるのです」
「意味ですか。例えばどんな?」
「自分が賢いと思うなら翁、朗らかで人見知りしないと思うならおかめ、義理堅いと思うなら狐面、という具合です。発祥は定かではありませんし、当時の若者の間で広まった遊びの一種ではないかと思われます」
「なるほど。それで、業平の場合はどんな意味が?」
「業平の場合、自分は生まれが良くて美男子だ、という意味になります」
「それで、あまり付ける人がいないんですね。昔の人は謙虚だ」
 夜這いの風習の一種だろうという仮説は、どうやら遠からずのようである。面に意味があるのは、自分の好みの異性を選ぶ基準にするためだろう。身分を互いに明かせないのであれば、こういうサインのあった方が話も早い。
 それはさておき、この能面を用意してくれた大原氏は、まさかそんな意味があるとは思っていなかったのだろうが、とんだ物を選んだものである。それに、大原氏の所にこれがあったという事は、大原氏の先祖はこれを付けて祭りに参加していたのだろうか。少々気になる話である。
「お住まいはさっきの辺りなのですか? 今更ですが、お帰りは遅くなりませんか」
「いえ、自宅は神社の裏ですから。あそこには祖母が一人で住んでいますから、毎日様子を見ているのです」
「毎日ですか。それはまた大変ですね」
「今は私しか祖母の面倒を見る者が居ませんので」
 あの不気味な能面で顔は分からないが、彼女は声からしてまだ若い印象を受ける。何らかの事情があって苦労をしているようだが、今現在他に身内が居なさそうな事と関係があるのだろうか。記者として訊ねてみたいと思いつつ、それではただの低俗な芸能レポーターと変わらない、と自分を戒める。自分が志望しているのは政治経済に関わるもっと高尚な報道なのだから、他人のプライバシーに干渉すべきではない。
 時折そんな会話をする妙な距離感のまま歩いていると、やがて見覚えのある通りへ入ってきた。この辺りであれば昼間良く歩き回ったので、大体の位置が掴める。
「ここまで来れば、宿はもうすぐです。あの角を曲がった通り沿いにありますから」
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
「いえ」
 丁寧にお礼を述べてみたが、相変わらず彼女は跳ね除けるような素っ気ない態度である。道案内をしてくれたとは言っても、やはり嫌われているのだろうか。確かに第一印象は悪かったかも知れないが、それだけでこうも態度を硬化するだろうか。案外、生理的な部分で合わない所があったのかも知れない。
「そう言えば、さっき訊いていなかったんですけれど。あなたの能面は何というものですか?」
「これは痩女と言います」
「痩女? それはまた、おどろおどろしい響きだ」
「当然です。恨み辛みの渦巻いた人間を表す面ですから」
「ちなみに、どんな意味が?」
「そのままですよ。そのまま」
 そういう意味を知っていて、何故そんな面を付けている、とは訊けなかった。間違いなく立ち入った話になる以前に、彼女にはそれを迂闊にさせない言い知れぬ威圧感があったからだ。
「それでは、取材の方頑張って下さい」
 彼女はそう言い残すと、足早に去っていった。助けてくれたお礼を改めて何か言おうと思っていたのだけれど、それすらも拒絶するかのような態度に思えてならない。食事の一つでも誘いたい所だったのだが、かえって迷惑になるやもしれない。彼女の居場所は分かるのだから、改めて訪ねてみればいいだろう。ただ、それでも同じ態度を取られるかもしれないから、言葉だけに留めておくとしよう。
 それにしても。
 彼女の印象は、素っ気ない態度の他にあの不気味な能面が大きい。痩女というらしいが、何故わざわざあんなものを付けているのかが気にかかる。一体彼女は誰にどんな恨みがあるのだろう。何か、常人には測りかねる複雑な事情があるのだろう。今はそういう事にしておいた。