戻る

 宿には夕方よりも前に戻り、それから部屋で記事の草稿を作り始めた。しかし、どうにも文章がうまくまとまらず、何度も何度も打っては削除するのを繰り返していて、とても捗っているとは呼べない状態だった。集中力が全く持続しない。そして、集中しようとすればするほど集中力を欠いてしまう有り様だ。
 ただの文章すら打てないほどに頭を掻き回すのは、やはり昼間の沖田の事である。
 存在しないはずの沖田の親類のように振る舞い、まるで俺の素性を知っているかのような言動、それは一体どういう経緯と理由によるものなのか。それを会話から少しでも引き出すつもりだったのだが、結局の所はアイスを戴いただけでろくに話も出来ず、あまつさえこちらから逃げるように帰ってしまった。そうなってしまった理由は、単に迫力負けしたからとしか言いようがない。いい大人が、恐らく二十歳そこそこであろう小娘にあしらわれた、要はそういう事になる。
 だが、何も得られなかった訳ではない。一つだけ、ある仮説が得られた。ただそれは非常に馬鹿馬鹿しいもので、とても口にするのに憚られるものだ。けれど、今の俺の状態では、どうしてもその仮説が事実なら全て辻褄が合うようにしか考えられなくなっている。
 これ以上、記事の草稿にこだわっていても何も進展はしない。執筆を諦めた俺は穴だらけのファイルを閉じると、新たに空のドキュメントを立ち上げた。そして、多少迷いながらも、この文書の冒頭にこう打ち込んだ。
 あの沖田と名乗る女性は、亡くなった沖田明里ではないのだろうか?
 何故、そんな突拍子もない仮説を思い付いたのか。それは単に、それが一番彼女の言動を説明しやすいからだ。俺の記事のせいで沖田明里は命を落とす事になってしまった。当然俺に対しての恨みがある。また、人間でないのなら俺の怪我の事も何かしらで知る事が出来た筈。
 そこまで打ち込んだ所で、やはり自分はあまりに馬鹿馬鹿しい仮説を立ててしまったと悔やみ、ドキュメントをそのまま破棄した。幾ら死人祭りの由来がああだからと言って、この現代に死んだ人間が甦るなど起こりうるはずがない。現実的な所では、沖田明里の親類か友人かだろう。それに、俺の素性や怪我の事も絶対に調べられないという保証は無い。現に沖田明里の父は、記事の署名だけで俺に辿り着けたのだから。
 だが、本当にそうなのだろうか。常識的だと言えばそうかもしれないが、実際世の中では常識的でない事件が毎日幾つも起こっている。記事に扱うような事件と同列に並べて論ずるのはおかしい説だと大抵の人は思うだろうが、俺にはどうしても一笑に付す事が出来ない。
 そこまで悩むのなら。
 そんなに気にかかるのなら、手っ取り早く潰せる仮説は潰した方がいい。馬鹿馬鹿しい事だと分かっていても、証左が必要な事もある。無為な悩みに時間を浪費する方がよほど勿体無い。
 俺はすぐさまネットであの事件の記事を検索してみた。こういう事件は加害者も被害者も写真入りで同等に報道されるから、沖田明里の顔写真も決まって掲載されている。それに、自社の新聞で記事を目にして信じられない思いをしたのは、まだそれほど昔の事ではない。写真もうっすらとだが覚えている。
 さほど苦労する事もなく、目的の記事は見つける事が出来た。耐え難い自分の失敗であるが、今はあまり意識せず作業的に顔写真を探して集める。どの記事にも沖田明里の写真は掲載されていたが一種類だけで、それもかなり小さくあまり解像度も良くはない。社によって多少サイズの違いはあるが、どれも出所の同じ写真を加工したものだ。出来る限り拡大して写真と昼間の沖田と名乗る彼女の記憶を照らし合わせてみるが、何となく似ているような雰囲気はあるものの、同じ同じでないを断定するには些か弱い。彼女は顎に小さなほくろがあったが、この解像度では粗過ぎて確認するのは難しい。せめてそれだけでも分かれば良かったのだが。
 やはり加工前の写真が無ければ照合は難しい。そこで俺は伊藤に相談を持ちかけようと電話をしてみる。しかし取り込み中らしく、電話はすぐに留守録へ切り替えられた。もっとも、伊藤は明確にオフとなっていない限りは、こんな時間に連絡はスムーズに取れない。社会部はそういう多忙な部署だ。
 仕事で出られないのなら仕方が無い。無理に電話を続けても仕方が無いので、要件を携帯へメールで送ることにした。必要なのは、沖田明里の個人情報。交友関係なども分かればいいのだが、特に欲しいのが解像度の高い顔写真である。おそらく社会部にはその資料があるはずだ。掲載する時は配慮という事でわざと解像度を落としたが、原本ならほくろがあるかどうかは確認出来るだろう。それでほくろが無ければ、この馬鹿馬鹿しい仮説も遠慮無く全否定が出来る。
 メールを打ち終わりパソコンの電源を落とす。こった体を伸ばしながら窓の外を見ると、日も落ちかけて暗くなりかけていた。時計を見ると午後五時を過ぎており、そろそろ祭りの始まる頃合いである。
 今日はもう文章を作れるような心境ではない。先に解決する事があるし、帰って来る時には何かしら伊藤からアクションがあるだろう。続きはそれからでも充分である。取り合えず、今夜の所はこのまま祭りに繰り出して気分を変えつつ、何か記事に使えそうなネタを仕入れるとしよう。形式だけの記事ではあるのだけれど、あまり手を抜いたものにはしたくない。