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 沖田が帰った後も、俺はしばらく座りながら考え込んでいた。そして、またふらりと夜店に行ってビールを買い、また同じベンチへ腰掛け考え込んだ。二杯目のビールは思っていたよりも効いたらしく、考え込んでみてもすぐに頭がボーッとして思考が希薄になった。答えの出ない堂々巡りに近かったが、考えるという作業は心地好くて気分が落ち着くようだった。何かをしているという満足感が得られるからなのかもしれない。
 沖田家に対して、俺は何をすれば良いのだろうか。最初は、沖田と名乗る彼女の正体を突き止める事だったのだが、今となってはそれはどうでも良くなってしまった。彼女が何者であろうと、沖田家に関わりのあった人物に違いは無いからである。
 俺がしてきた事と言えば、進行中の事件の犯人に沖田明里を殺させる切っ掛けになった記事を書き、その事で俺に恨みを持った彼女の父との事件で彼は逮捕された。これほど沖田家を狂わせたにもかかわらず、未だこうして自由に酒も飲める身分のままだ。今の沖田家には自由に動ける人はいない。父親は拘留中で、祖母は一人暮らしも危ぶまれるほどの老齢だ。それでも、沖田を騙り俺に謝罪を求めようとする者はいる。俺はそれに応えるべきなのだろうか。
 俺は迷っていた。ここだけでも俺が謝って済むのであれば、会社にも迷惑はかからないだろうし、俺も負い目を捨てられるだろう。けれど、本当にそれで決着がつくのかは大いに疑問だった。仮に俺が沖田の意向に沿うようにしたところで、全て清算された事になるだろうか。何より、自分が長年憧れていた社会部での報道記者、その実現が遠ざかったり、もしくは消滅したりはしないだろうか。本音を言えば、一番重要なのは自分の行く末である。どこにどれだけ頭を下げようと、それは構わない。だが、記者としての将来を奪われる事だけは我慢がならない。どんな条件を提示されようと、その一点だけは甘受は出来ないのだ。ただでさえ、今回の事件でそれが揺らいでいる。不可抗力や明らかな自分の過失ならまだしも、自分から道を閉ざすような真似をする訳にはいかない。
 ふと時刻を見ると、いつの間にか九時を回っていた。そろそろ宿に戻らなくてはいけない。俺はベンチから立ってゴミを片付けた後、まだ大勢の人で賑わう会場を後にした。
 宿に戻ってから風呂に入り夕食を済ませると、あまり捗っていない記事の草稿に取り掛かった。まだ酔いも覚めてはおらず気分も落ち着いてはいなかったが、昼間とは打って変わって嘘にように文章が頭に浮かんで来た。一度頭をリセットしたから思うような文章が書けるのだろう。ただ、これが世に出るのかどうか分からない記事である事を考えると、文章を打ち込む手に熱が籠るのとは裏腹に胸中は酷く冷え切っていた。ただでさえ、形式だけの記事を書かされる事には憤慨していたのだ。それでも何とか自分を発奮させて建設的に行こうと思っていたけれど、今はもうそんなモチベーションが無い。記事も印象に残った事をただ連々と書き連ねているだけで、普段のように独自のアクセントや特に注視して欲しいものなど一切込めていない。こんな記事よりも、もっと別の事に余力を注ぎたい。そういう気分だ。
 想定よりも早く草稿を書き終え、急にやる事が無くなり気が抜けてしまった。冷蔵庫から大原氏に入れて貰っていたビールを取り出し、グラスに注いで一杯二杯と立て続けに飲んだ。明日はもう取材する予定も無く、一日だらだらと過ごすつもりであるため、何の気兼ねも要らない。だから、今夜は思う存分酒を飲みたいと思う。
 窓の外を見ると、数え切れないほど並んだ行灯が未だ淡い明かりを放っているのが見えた。覆い尽くすほどでは無いが、まるで夜の街を流れる光の洪水のようである。これを目印に故人が集まってくるという言い伝えなのが死人祭りだが、正直な所集まるのは薮蚊ぐらいだろうと、俺は酔いの勢いでそんな皮肉を呟いた。明日でこの死人祭りも終わりである。行灯も撤去され、元の何の特徴もないただの田舎町に戻るのだが、その前に俺が東京へ帰るだろう。本社でも俺の件について後始末も終わった頃合いだ。騒ぎが収束していれば、すぐにでも元の生活へ戻る事ができる。社会部への転属を希望しながらも聞き入れて貰えず、相変わらず生活文化部で当たり障りの無い記事を書く、そういう日常だ。けれど、そこにはいつまでも沖田家と沖田明里の事が伸し掛り続けるだろう。沖田には勢いで強弁したものの、実際簡単に割り切ってしまえるようなものではない。
「あっ、そうだ」
 あっという間に一本目のビールを空け、二本目の栓を抜いた時だった。今になって、伊藤から沖田明里の資料を送って貰っていた事を思い出す。伊藤には危ない橋を渡って送ってもらっただけに、すっかり失念してしまったのは申し訳ない。
 早速パソコンのメーラーを起動し、私用アドレスへ転送した伊藤からのメールの添付ファイルをハードディスクへ移す。それからすぐにメールは削除する。これで証拠が隠滅される訳ではないが、少なくともちょっとしたミスでうっかり余計な所へ転送してしまうようなヘマは起こらなくなるのだ。
 伊藤から送られてきたのは、テキストファイルが一つに画像ファイルが三つ。その内、画像ファイルは携帯で軽く確認している。まず、画像ファイルから開いていった。一枚目の画像は沖田明里の正面写真で、俺が最初に携帯で開いたものと同じだった。スーツ姿で表情は固く、背景は鮮やかな水色一色になっている。おそらく大学入試用辺りに使う写真を撮影したついでに、こういう写真も記念に撮っておいたのだろう。顎を見ると、しっかりとほくろが一つ確認出来る。
 沖田と名乗ったあの女性は、亡くなった沖田明里ではないのか? そんな事を真面目に考えていたが、やはり記憶と画像とでの照合では無理がある。そもそも沖田の素顔はまだ完全には見ていない。取り敢えず、ほくろは同じ位置にあったという事が分かるだけだ。だけど、改めて見て思うのだが、この写真の沖田明里とあの沖田、何となくではあるが雰囲気は良く似ているように思う。背格好も顎の形もこれに近かったように記憶している。だが、流行にうとくて人気アイドルの顔も皆同じに見える俺の目など、そんなにアテになるものではないとは自覚している。
 二枚目は高校の卒業アルバムの写真、三枚目は数名の若い男女と一緒に写した記念写真だった。三枚目には見覚えがある。沖田明里が殺害された際に報道で使われた写真、それのおそらく加工元だろう。この三枚の中で一番生活感のある写真を選んで使う辺り、報道の煽りの嫌らしさを実感する。
 続いてテキストファイルを開く。中は沖田明里に関する複数の資料を要所要所コピーしたらしい、伊藤の手作りのようだった。流石に丸々はリスクが高いと判断したのだろう。内容をざっと読んでみると、沖田明里についての略歴や交友関係等、各社で取材した情報を寄せ集めたものだという事が分かった。随分入念に取材をしたのだろうが、携帯の番号や体型の事まで及んでいるのは明らかに異常である。沖田明里に関する情報なら何でも集めようとした結果なのだろうが、これではまるで被害者なのか加害者なのか分からない。結局の所、報道姿勢よりも発行部数だとか反響の方が大事なのだ。新聞社と言えど、商売に違いない。
 俺は沖田との会話に出てきた事を思い出しながら、それが事実かどうかを確認してみる。まず沖田は神道関連を専攻する大学二年生と言っていたが、略歴を見た限りでは一致している。東京に住んでいて、今は夏休みで帰省中というのも不自然ではないだろう。性格は温厚ではあるものの、物事の分別には厳しい。これは沖田と一致しているかどうかは一概には言えないだろう。ただ、自分の経験則からして、そういう傾向にある人物はこういう喋り方をする。
 沖田はこの資料と良く似た特徴を持っている。そう思った直後、一体自分は何を証明するつもりだったのかを思い出し、そんな結論で良いものかと苦笑いする。これではまるで、本当にあの沖田が沖田明里と同一人物だと証明したようではないか。
 伊藤には重ね重ね申し訳が、今となってはあまり重要な資料では無くなってしまった。俺はこれ以上の資料の検証は止め、ファイルを全て閉じるとパソコンの電源を落とした。
 そう、今一番重要な事。それは、沖田を名乗る彼女を納得させる事だ。けれど、沖田は、沖田明里の命と俺の記者としての将来、それらを相殺する事でしか納得しないのではないだろうか。少なくとも今は、自分が苦渋の決断をする以外に手段が思い浮かばない。口約束だけで済ませようか、とも考える。だけどそれでは、沖田明里の亡霊を延々と留まらせる事にしかならないだろう。