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「蘇我さん、まだおやすみですか? 蘇我さん」
 その日の朝は、部屋の外から聞こえて来る大原氏の声で目が覚めた。寝惚けた頭で携帯を開くと、時刻は既に九時になろうとしていた。セットしていたアラームは自分で止めた形跡がある。覚えてはいないが、よほど眠くて止めてしまったのだろう。
「すみません、今起きます」
 慌てて布団から飛び起き部屋の戸を開ける。大原氏は心持ち不安げな表情で立っていた。
「まだ寝ていらしただけでしたか」
「夕べはちょっと飲みすぎてしまって。申し訳ないです」
「いいえ、お仕事の疲れもあるでしょうから。朝食は如何なさいますか?」
「頂きます。もう自分も起きますので」
「分かりました。ではゆっくり身支度をしていて下さい」
 大原氏は早速厨房の方へと向かった。俺も身繕いしようとタオルを取って洗面所へ向かう。
 こんなに寝坊したのはどれくらいぶりだろうか。人に起こされるまで気が付かないなんて、そうはない出来事である。昨夜はそれほど夜更かしをしたつもりは無かったのだが、それ以上に酒の量が多かったらしい。どうしてああも飲んでしまったのか、今となっては昨夜の事はほとんど断片的にしか思い出せない。
 今朝の朝食は、焼き魚にハムエッグとややボリュームのある内容だった。深酒をした翌朝にこれは多すぎるかとも思ったが、二日酔いではないのと案外空腹だったらしく、さほど苦もなく食べる事が出来た。ただ、相変わらず味噌汁の味だけには未だ慣れる事ができない。
「今日で死人祭りも終わりですが、蘇我さんは明日東京へ戻られるのでしたっけ?」
「ええ、明日の午前中にはもう」
「では、タクシーの予約をしておきましょう。この辺では東京と違って、呼べばいつでも来るようなものではありませんから」
「本当に、何から何まで御世話になりっぱなしでしたね」
「いいえ。それより、東京に戻りましたら三浦さんに宜しくお伝え下さい」
 食後のお茶を飲みながら、いよいよこの出張取材も終わりなのだなと感慨にふけった。もっとも、これはただの謹慎でしかないし、記事も普段のように自信を持って出せるような代物ではない。それに、まだ沖田家の事も終わっていない。取材の終わりは分かっているけれど、その実感は限り無く薄いものだ。
「本日はどうなさる御予定ですか? 夜になれば閉会式のようなものはありますが」
「ええ、それはそれで取材するつもりです。ただ」
「ただ?」
「いえ、日中はどうしようかと思っていまして」
「まあ、こんな小さな田舎町ですから、もうあらかた見て回られたでしょう。特に無いのでしたら、今日は日差しもさほど強くありませんし、ぶらぶらと見て回られても良いと思いますよ。空気の綺麗さだけは東京には負けませんからね、ただの散歩も気持ちいいはずです」
「なるほど。確かにそういうのも良いかもしれませんね」
 特に新たに取材する所が無いのであれば、単なる散歩でも良いとは思う。けれど、どうしようかと迷っているのは、何をしたらいいのか見つからないという意味ではない。しようかするまいか悩んでいる、という意味だ。それをいきなり直に口にするのも角が立つので、まずは曖昧に笑って返した。
「ところで、大原さん。昨夜、また例の人に会いましたよ」
「例の人?」
「自分を沖田と名乗った女性です。痩せ女の面を被った」
「ああ、はいはい。覚えています。そうですか、まだそのような格好をしていたんですか。随分と悪質ですね」
「ええ。それでちょっと話しをしてみたんです」
「そんな事をされたのですか。こう言ってはなんですが、そんな事をしても益々相手を付け上がらせるだけですよ」
「一応言い分くらいはと思いまして。そうしたら、沖田家の亡くなったお嬢さんの事について随分と詳しく知っていたんですよ。ですから、もしかすると生前仲の良かった友人なのかも知れないと思ったんです」
「なるほど。亡くなった友人を偲んでそういう事をされたのかも知れませんね」
「ただ、一つ気になる事があるんです」
「気になる事?」
「その彼女は、沖田家の自宅に出入りしているんです。もしかすると、住んでいるのかも」
「となると、沖田さんが東京へ行く前に、留守を頼んだのかもしれませんね。自分は当分帰って来れなくなるからと」
「娘と仲の良かった友人であれば、そうであっても不自然ではありませんからね。それで、一つ考えたんです」
「と、仰いますと?」
「彼女にだけ、自分の本当の素性を打ち明けようと思います」
「ええっ!?」
 大原氏は驚愕の表情で絶句する。無理も無いだろう、俺の素性はこの町に居る間は絶対に隠しておかなければならない事だ。理由など、沖田家に対して起きた事とそれについて町民がどう考えたかを想像すれば、実に明解である。
「大丈夫、彼女にだけです。それに、一つ思ったんです。どうしてデスクは、わざわざ奥之多町に俺を寄越したのか。多分、俺が納得するような再取材をさせるためじゃないんですよ」
「でしたら、やはり当人に謝罪をさせるためでしょうか?」
「そうかも知れませんし、違うかも知れません。ただ、彼女のような人に直に会わせる事が理由の一つなんじゃないかと思っています。それで俺に何かを考えさせたいんでしょう」
「そうですか……」
 複雑ですね、と言って大原氏は視線を外した。これ以上は俺の胸中に深く踏み込む事になるから、それを遠慮してのことだろう。それに、大原氏には好意で協力して頂いているが、本来ならこの奥之多町の住人なのだから、俺には不快感を見せる側のはずである。俺が沖田家に対してどう接するのか、今も気になっているだろう。
 今更ではあるが、俺は沖田家だけでなく、大原氏との事も本当は考慮しなくてはいけないのだろうかと、それに気づいた。