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 何時になったら沖田は来るのか。そんな事を数分おきに考えつつ、非常に落ち着かない心境で彼女が来るのを待った。自分の素性を明らかにする。本当はその件で緊張するはずだったのが、すっかり沖田が何を話しに来るのか、本当にそれだけなのかと、その目的にばかり気持ちが行ってしまっている。まだ大した人生経験も無いような若い娘のする事などたかがしれている、と強気に構えたいものの、これまで散々困惑させられてきただけに、どうしても身構えざるを得ない。
 夕刻になり太陽が傾いてくると、周囲の行灯が一斉に灯された。宵口の薄暗さをぼんやりとした明かりが柔らかく照らす。東京のぎらぎらした明かりとは違うその光景は、相変わらず見る者を圧倒する幻想的な雰囲気があった。その頃になると、またどこからともなく町民が会場へ集まってきた。いずれも面を付けて素顔を隠していて、お互いに誰が誰なのか分かっているようないないような、会話をしている。それは、この雰囲気と合間ってとてつもない非現実さを窺わせた。しかし、不気味さというよりも妙に心惹かれるものがあり、他所から来た自分でも親しくなれるのではないか、そう思わせる魅力がある。単純に仕事も何も抜きで来ていたのなら、もっとこの雰囲気に自分も馴染めただろう。それが心残りだった。
 日もほとんど暮れかけて、ステージ上は行灯のものとはまた別の照明でライトアップされた。会場には相当な数の町民が集まり、各々の話し声が喧騒のように飛び交い始めた。ステージ上では係員がマイクのテストを行い、機材が古いせいか、あの耳障りなハウリング音を鳴らしてしまう。けれど、人々の喧騒の方がよほど大きく、話し声は一瞬も止むことがなかった。
 それから程なく、見覚えのある鬼の面を付けた初老の男がステージの上へ上がった。同時に、マイクを持ったひょっとこ面の司会進行役が集まった町民に向かって静粛を呼び掛ける。確かあの鬼の面は町長だったと思う。開会の時にも現れていたから、閉会の挨拶もするのだろう。これも公務の内なのだろうが、わざわざ足を運んできての挨拶という力の入れ様から察するに、町長にとっても死人祭りには並々ならぬ思いがあるようである。
 まだ幾分ざわつきが残る内に、進行重視で町長の挨拶が始まった。話の途中でも平然と前を横切ったり、屋台へ並んでいる知り合いへ追加の注文を叫んだりと、みんながみんな必ずしも行儀の良い聞き方ではない。けれど、進行を乱すような悪ふざけや野次が無いのを考えると、奥之多町民にはそれなりに愛着の深い祭りなのだろうという印象を受ける。これだけの世代間で分け隔てなく参加するこの地域ぐるみの一体感は、近年中々お目にかかれない。東京の下町でも祭りはあるが、あれはほぼ観光客向けのイベントと化した経済重視のものである。この町のように、町民が純粋に祭りだけを楽しんでいるものではない。
 町長の挨拶も終わりステージから退場すると、今度は入れ替わりに大きなフリップボードが上げられた。すると、これまでも十分騒がしかったのだが、急に会場を揺るがすほどの歓声が上がった。この急な盛り上がり方、一体何が始まると言うのだろうか。俺は思わず身を乗り出して、ステージの動向を注視する。
「あれは行灯のコンテストですよ」
 その時だった、不意に横から声を掛けられて、驚いて振り向く。そこにあったのは、平安時代の女性を連想させる独特の形をした眉を持つ女の面だった。
 いつもの痩せ女ではない。そう自然に思ったのは、面が変わっていても彼女が沖田だと分かったからだ。急に面を変えて来るとは、一体如何なる心境の変化なのか。まずはその変わった面に注目させられた事により、沖田に出鼻をくじかれたような気分になった。
「行灯のコンテストですか?」
「役所の人や審査員などが町中に出された行灯の絵を全て評価し、優秀な作品にはそれぞれ賞と副賞を進呈するのです。これが毎年一番盛り上がる所なんですよ」
「なるほど、それでみんなやたらテンションが高い訳ですね」
 奥之多町には相当な数の行灯が並んでいたから、それらを全て見るだけでも気が遠くなるほどの時間がかかるように思う。祭りの期間はたっぷりあるとは言っても、果たしてそれで足りるのかどうか。少なくとも自分なら審査員などやりたいとは思わないだろう。
 ステージ側から歓声がひっきりなしに上がる中、沖田はそんな事などまるで他人事のように、静かに俺の向かい側へ腰を下ろした。
「いつもと面が違いますね。それ、おかめでしたっけ? 般若ではないですけど」
「今夜は村雨と呼びます」
「今夜?」
「決まった名前のある面ではありませんから」
 その他大勢のような、大量生産する面だから特定の名前が無いという意味だろうか? ならば、何故今夜だけ村雨と呼ぶのか、そしてそれにはどういう意味があるのか。一度に幾つも疑問を持たせる、相変わらず沖田の話し方は思わせ振りで非常に取っつき難い。俺にだけ取る態度だとは思うものの、意図的に人付き合いを拒否するかのようである。
「それで、私にお話とは何でしょうか」
「ええ。その、実は非常に話しにくい事なのですが」
 手っ取り早く用件は済ませて帰りたい。そんな思惑の聞こえてきそうな沖田の口調に、そうやって聞き流してくれたら大した衝撃も受けないだろうと、つい甘えた考えを持ってしまう。けれど、これは自分なりのけじめなのだからとすぐに考えを改め、まずは恐る恐る自分のつけている面を外した。
「顔は報じられてませんので、見覚えはないと思います」
「そうですね。こんな狭い町ですから、そういう大怪我をした方はすぐ噂になりますし」
 俺の顔左半分を覆うガーゼを見ても、沖田は一つも驚いた声を出さなかった。まるで初めから知っていたかのようであるが、多分実際に知っているからなのだろう。それは先日の蕎麦屋の時で明白である。
「蘇我弘隆と言います。所属は生活文化部という、日常生活に関連した記事を担当しています。ですが私は、この町の出身である沖田明里さんに関わる記事を特例で書きました」
「知っています。私も読みましたし、あの記事の事をこの町で知らない人はいません」
 そして誰もが記事を書いた記者を快く思っていない。そんな声が聞こえてきそうである。だが俺は怯まずに話を続けた。
「そもそも私は社会部での報道を志望していました。もっと世間が注目するような大事件や出来事を取材したい。生活文化部へ配属されてからも異動願いは出し続けていましたが、なかなかそれは聞き入れて貰えませんでした」
「つまり、本来はこういう取材や記事は意にそぐわない訳ですね」
「ええ。失礼かも知れませんが、それが偽りのない本音です。だから、あの時に私は、この状況を打破出来るチャンスが遂に巡って来たと思いました」
「チャンス?」
「それは、東京のとある住宅街で起こりました。夜半過ぎに通りかかった人へ無差別に襲いかかる通り魔事件です。軽傷で済む人が大半でしたが、やがて何十針も縫うような重傷を負うケースに発展し、そこで初めて大々的に報じられました。多分この通り魔事件は御存知と思います」
「そうですね。テレビでも頻繁にやっていましたし、起こった場所もあながち知らない所ではありませんから」
「私もそうでした。当時、私はその付近で新しいデザイナーズマンションの取材をしていましたから。それで事件の事も当然知り、そして思ったんです。地域ニュースの取材という名目ならば、犯人の目撃情報を警察よりも早く集められるのではないか、と」