戻る

 奥之多町を後にしたのは、その日の午前中の早い時間の事だった。大原氏に宿の精算を済ませ、そこからタクシーで最寄り駅へ向かう。再びローカル線を乗り継いで新幹線で移動し、東京に着くのは夕方になるだろう。その後は自社に行って、デスクに口頭での簡単な報告を済ませる、といった所だろうか。ただ、今回の事は多少なりともデスクに確認する必要はある。どういう意図で俺を奥之多町へ向かわせたのか。大方予想はついているが、現地ではとても常とは思えない事に遭っているだけに、直接聞かなければ気が済まない。
 車中、窓越しに奥之多町の町並みを眺めた。あれだけ沢山置かれていた行灯は、たった一晩で跡形もなく町並みから消え去っている。行灯は祭りの直後に全て片付けられたそうだが、あれだけの数が一晩で消えてなくなるのを見せ付けられると、何だか自分が今までこの世ではない所にいて、そこから急に現実へ引き戻されたような錯覚を覚える。実際あの祭りには、普通では起こり得ない事でも起こってしまうような気分にさせる、一種の独特な空気があった。だからそのせいで俺は、沖田明里が甦ったのではないかと思い込んでしまったのだろう。
 タクシーで最寄り駅に着くと、そこから二つのローカル線、新幹線と滞り無く乗り継いで行けた。公共交通は日中に混雑している事が少ないが、僻地の上りである事を差し引いても推測通り混雑はさほど無く、悠々と自由席で好きな席を選ぶ事が出来た。
 窓の外の景色は、新幹線が走り出して程なく奥之多町の色合いは綺麗に無くなってしまった。代わりに広がるのは、地方都市のビル群や国有林らしき未開発の山林で、それが交互に繰り返すと共に自分が東京へ向かっている実感が湧き始めた。ようやく日常に戻れた、といつしか安堵していたが、それだけ奥之多町は俺にとって非日常的な場所だったのだ。夜でも昼のようにギラギラと明るい東京に住んでいては、決して分からない独特の文化が奥之多町にはあると思う。ただ、自分がその情緒を正確に理解しているのかには自信が無い。結局、自分は色眼鏡でしか物事を見られず、その色眼鏡を独自の切り口だとか報道の視点だと錯覚し思い上がっていた。そこで事実との相違が生まれる。これだけは確かである。
 今回の取材で、一体何が得られたのだろうか。そんな事を、ふと、思い浮かべる。
 分かったのは、自分は沖田明里の遺族に強く恨まれているという事だ。それも生半可ではなく、ささやかな謝罪すら受け入れて貰えない程である。そこには、報道する側の自分が謝るのだから、という驕りがあったかもしれない。恨まれているのは、俺個人ではなく会社そのものかもしれない。ただ単純に、俺が一生この事で罪悪感を背負い苦しむ事を強く望まれている。その恨みの深さは、沖田真由美に嫌と言うほど思い知らされた。そこには、時間が解決するなどといった楽観的なものは何一つ存在しない事も分かった。許して貰おうとする事さえ拒絶されるなら、俺は一生罪悪感を背負い続けなければいけない。そもそも謝ればそれでいいと考えるのが、驕りなのだろう。世の中には、謝っても済まない事がある。正にこれがそうだ。
 一番の解決方法は距離を取る事。それぐらいしか俺には思い当たらなかった。けれどそれに必要な距離がどれほどなのか、自分のさじ加減には自信がない。今の世の中は情報化が進んでいる分、離れているようでも想像以上に距離感が近く感じる事がある。沖田真由美はどのように感じているのだろうか。今になって、それを訊ねておきたかったと僅かに後悔した。
 東京着まで、まだ小一時間ほどある。少し眠ろうかとも思ったが眠気はなく、むしろ冴えてさえいる。なら、作成した記事に手を入れようと考え、網棚から鞄を下ろした。口を開けて、取り出し易いように大きく広げる。
 すると、
「うわっ!?」
 突然、思わぬタイミングで鞄の中から覗いたのは、青白い肌をした女の顔だった。何故こんな所に人間の首が。予想だにしなかったあまりの出来事に、思わず甲高い声をあげる。だが、良く落ち着いて見ると、それは人の首などではなく女の能面だった。しかも、この数日間に非常に良く見覚えのある面である。
 やられた。俺の声に驚いて視線を向ける向かい席のサラリーマンに苦笑いで会釈し、内心悔しげに歯噛みした。
 これは多分、大原氏の仕業だろう。タクシーへ乗り込む時に、執拗に自分が荷物をトランクへ運ぶと言ってきたから思わず任せてしまったのだが、その時に忍ばせたに違いない。彼は俺の素性を知っていて、あの記事の件を快く思っていない、もう一人の人物である。別れ際に、嫌がらせの一つもしたかったのだろう。
 沖田真由美が付けていたこの面の名前は痩女といい、強い恨みを抱いた者を表しているという。これこそが、自分が生涯背負わなければならない罪悪感の象徴だろう。しかし俺は、一生背負う事はない、そんな自信はないと思っている。今回の事を幾ら真摯に受け止めていても、やがてその気持ちは時間と共に風化し、蔑ろにするだろう。沖田真由美とは違って、これは時間が解決してしまうのだ。当分は、多少気持ちが薄まっても、この面を見れば新たに気を引き締められるだろう。だが、何時かは何も感じなくなってしまい、そうなったら、もう二度とこの気持ちは戻らない。それが何時の日の事になるのかは、正に時間の問題だ。
 どんなに貴重な教訓でも、やがて風化するのでは全く意味はないだろう。だったら、俺がこの数日間、奥之多町で思い悩んだ事や反省の経験も、俺の人生にとって大した意味のある事ではないのかも知れない。そう思わざるを得なかった。