BACK

 前回と大した変わりのない内容の面談も終わり、処方箋を貰って帰路についた。時刻は丁度夕方の帰宅ラッシュの前で、通りを行き交う人も割にまばらで歩き易かった。自宅まではここから地下鉄で一本、十分程度の距離と非常に近い。実際仕事帰りに毎日でも通えるのだけれど、予約の関係上月に一度という制限がある。一度に複数の病院を受診する事は法律で禁じられているため、なかなか思うようには進まないのが現状だ。
 クリニックから近くの地下鉄駅へ入りホームまで下る。次の電車待ちの中、ふと携帯に未読のメールがあった事を思い出して携帯を開く。メールは、キョウコという俺の同棲相手からだった。キョウコは市役所に非常勤で勤めていて、今日は仕事は休みである。夕食をシチューするからという内容で、別段こだわりのなかった俺は今から帰るとだけ返信した。
 最寄り駅から自宅マンションまでは歩いて五分ほど、その途中には会員制の大型スーパーやショッピングモールなど、ベッドタウンにしてはいささか仰々しいように思える店が続いている。当然モールの中にもナノマシンを扱う病院はあるのだが、以前人為的な問題を起こしたという噂を聞いているため、俺はあえて避けている。それでも潰れずにやっていけているのは、それほど世間のナノマシンに対する需要が高いという事なのだろう。
 自宅マンションのエントランスからエレベータに乗って五階へ上がる。部屋はエレベータから一番離れた奥の一画だ。いつものようにチャイムを鳴らさず、自分で鍵を開けて部屋へ入った。
「あら、おかえりなさい」
 玄関の敷居を跨ぐと、シチューを煮込む香ばしい香りと共にキョウコが出て来た。背中が隠れるほど長く綺麗な自慢の黒髪は、邪魔にならないように縛って留めている。それでも角度が変わる都度きらきらと輝いて見えるのは、流石に生まれ持ったものだけでは無いと俺は常々思っている。
「ただいま。何か欲しいのはあった?」
「いいえ、大丈夫。足りてるわ。御飯は出来るまでもう少しかかるから、着替えて待ってて」
 寝室で居間着に着替えてリビングへ戻る。テレビをつけると丁度夕方のニュースをやっていたが、クリニックのテレビで見ていたものとさほど内容は変わらなかった。今日もさほど重大な事件は起こっていないようである。手持ち無沙汰になり、キッチンカウンター越しにぼんやりと夕食作りに勤しむキョウコの後ろ姿を眺める。総合的な体の線が歳の割にやや幼く見える、そんな気がしないでもないといつも思う。元々人より童顔の部類に入るのだけれど、成長が遅いせいではないかと想像する。本人はその仮説を、必ず強く否定するのだけれど。
「病院の方はどうでした?」
「ああ、いつも通り。順調に終わったよ。またいつもの処方箋だけ」
「やっぱり、熱の事は分からないのですか?」
「まあね。それに、向こうもそんなに徹底的な原因追及はしないよ。最新機器で検査するなら、大きな病院へ客を譲らなきゃいけなくなるからね。こっちだって、検査を受けるのもタダじゃない。それに、その内検査だって必要はなくなるんだから」
「まあ、確かにそうですけど……」
 キョウコは今一つ納得のいっていないような表情で口篭った。その理由は知っている。キョウコは俺が発熱の習慣を治すのにナノマシンを使う事は、基本的に反対だからだ。きちんと検査をして根本的な原因を治療をするべきだというのがキョウコの主張であるのだが、今時こういった考え方をするのは極めて少数で古風な人種だ。俺が生まれる前から存在する、体にピアス穴を空けてはいけない、と主張するのと同じレベルである。
「まだ不安? 心配するほどの事じゃないよ。ナノマシンで死ぬよりも高熱で死んだ人間の方が多いんだし」
「それはそうですけど。もしも何かがあったら、と思うと不安ですもの。元々、自然ではないものを体に入れるんですから」
「そんな物は、食べ物や飲み物にもたっぷり入ってるよ。防腐剤に着色料、発色剤に甘味料。自然なものにこだわったってきりがないさ」
「いえ、その、私が言っているのはそういう事ではなくて、もっと自然な姿の方が人間として―――」
「キョウコは相変わらず古風だなあ。そんな事よりも、早く食事にしようよ。昼飯食べてないから、腹が減って仕方ない」
 そう笑ってまともに取り合おうとしない俺に、キョウコは一瞬むくれた子供のような表情を浮かべ、隠しながら溜め息をつき再び調理に戻った。そんな後ろ姿が愛おしく、後ろからぎゅっと抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、それは自重する事にした。以前に実際にそれをやり、キョウコが驚いた表紙に手が滑って二人仲良く大火傷を負ってしまった。既にキョウコは綺麗に治っているのだが、俺はまだうっすらと傷跡が残っている。あえて反覆する事もないだろう。
 けれど、それについては一つ思う事がある。今、俺が投与しているナノマシンは内臓に対してのもののみになるのだが、そちらが一段落つけば肌や筋肉にも投与した方が良いのではないかと思う。そうなれば病気だけでなく怪我にも強くなり、日常における不安の種や危険な事の大半が解決する、そんな単純な理由からだ。