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 翌朝、俺は普段通りの時間に目が覚めた。昨夜は恒例の発熱があったものの朝には熱が平素まで下がり、目覚めは至って快適なものだった。ただ、熱に散々にうなされたせいか、体はやけに動くが重く汗臭かった。まだ疲労感の残る体を起こして起きてリビングへ入ると、キョウコが普段通りの朝食の準備をしていた。それもいつもの事である。俺が急に高い熱を出しても、一晩経てばまるで嘘のように引いてしまう事を重々知っているのだ。
「おはよう、今日の朝は何?」
「おはようございます。とりあえず、昨日漬けていたセロリを確かめてたところなんですが」
 キョウコはガラス製の瓶の蓋と格闘している。どうやら蓋が固く閉まって開けられなくなってしまったようだった。キョウコに代わり、俺がガラス瓶を取って蓋を捻ってみる。若干の硬さはあったものの感じたのは最初だけで、空気が漏れるような音と共に蓋は難なく開いた。これぐらいの事を難なく出来るのであれば、体調はほぼ全快と言って良いだろう。
「ほら、開いたよ」
「すみません。もう体調は良さそうですね」
「まあ、いつもの事だからね。慣れっこさ」
 瓶を手渡すついでに、中のセロリを一つ取って口にする。斜め切りにされたセロリは、甘酸っぱい風味と元々のすっきりした風味が良く合わさっていて、実に食べやすい漬物の形になっていた。生野菜は得手ではなく、食べなければいけない時はいつもドレッシングなどをありったけかけて食べるのだが、こういう調理をした野菜であれば幾らでも食べられる気がする。
「お、いいんじゃないか? しゃりしゃりしてて、食感もいいし」
「そうですか。甘酢漬けなんですけど、うまくいったみたいですね」
 言われてみれば、市販の一夜漬けの素とは味わいが違う。こちらの方が保存料や添加物が無い感じの味だ。野菜嫌いの俺に何とかして食べさせようとするキョウコの工夫だろう。これもいつもの事である。
 朝食が出来るまでの間、俺は先に風呂場でシャワーを浴びて服を着替えた。キッチンへ戻り、冷蔵庫から冷たいお茶を取り出してコップで三杯立て続けに飲み干す。熱いお湯を浴びて火照った体には、冷たい飲み物は実に心地良かった。これから仕事で無ければビールが飲みたかったとさえ思う。欲求に負けてしまわぬようにと、冷蔵庫の中にちらつく缶はあえて見えていないように努めた。
「そんなに一気に冷たい物は飲んではいけませんよ」
「大丈夫、これでもまだ暑いくらいなんだ。本当に熱があったら、幾らシャワーを浴びても凍えて仕方ないからね」
「そうでなくとも、体には良くありません」
「まったく、まるでお母さんみたいだよなあ」
 眉をひそめながら口を尖らせるキョウコに俺は思わず苦笑いする。俺がこう頻繁に体調を崩すものだから、自然とそういう心配をしてしまうのだろう。だけど、俺は自分の体調不良には慣れきってしまっているから、いちいちそんな細かな事を気をつけたところでどうにもならないと分かっている。だからキョウコの心配は、子供が母親に事あるごとに小言を言われるのと同じように感じてしまうのだ。
 うちの朝食は、特別何も無ければ和食と洋食が交互に出る事になっている。それは単にキョウコがそうしているだけで、特別決めた事ではない。家事はほぼキョウコに任せてしまっている俺も、それについて特に文句をつける事もしなかった。まだ同棲という体裁は取っているものの、実質結婚しているようなものだと俺は思っている。そうする事に特に異論はないのだけれど、キョウコの方にはまだ色々と言い淀む物があって踏み切りたくはないらしい。俺も、今は自分の治療の方が大事だからそちらが決着してからでも良いと思っている。よって、もうしばらくはこんな関係が続きそうだ。
 食事を終えて、コーヒーを飲みながらテレビのニュースを眺める。今日は特にこれといった事件はなく、いたって平穏なようである。天気予報では午後から崩れる可能性があると言っており、心配ごとはこれぐらいになるだろうか。今日もまた無事に一日を過ごしたいものである。
「さて、と。じゃあそろそろ行ってくる」
 時間も頃合いであり、飲み干したカップを置いて出勤の準備のために立ち上がった。しかし、
「えっ、どちらにです?」
 何故かキョウコはきょとんとした表情で小首を傾げた。
「どこにって、仕事だよ。もうそろそろ出る時間だから」
「でも、今日は土曜日ですよ。土日はお休みだったのではありませんか?」
「えっ、土曜?」
 俺は慌てて手にしていた携帯を開いて日時を確認する。すると画面上のカレンダーは確かに土曜日を差していた。確か昨夜も寝る前に携帯を見て確認したはずだった。それで、明日も仕事を頑張ろうと、そんな事を思ったのを覚えている。けれど、昨夜が金曜だったなら、一体何を見てそんな事を思ったのだろうか。
「今日は休日出勤だったのですか?」
「いや、新薬の棚卸しは昨日に終わらせたから……何もないな」
 棚卸は決まって週の最後に行う。それを終えたのだから、次の日は決まって休みのはず。もう何年もそれは変わっていないはずなのに。
 思わぬ自分の行動に愕然とする。こんな勘違いは、覚えている限りでも初めての事だ。記憶違いとか物忘れとか、そんな類のものではない。もっと深刻な何かのように思えてならない。そう、もしもこれが昨夜の熱の後遺症だったとしたら―――。
「お仕事でお疲れなんですよきっと。コーヒー、もう一杯いかが?」
「ん、ああ、そうだな。貰うよ」
 体が脱力したように、力なく立ち上がったばかりの椅子へ戻る。ショックで膝に力が入らなかった。これほどショックを受けるものなのか、という驚きもあったが、これまでは無かった自分の変化が突然と現れた事にはただひたすら驚きを隠せない。
 キョウコが空になったばかりのカップへコーヒーをゆっくりと注ぐ。その様を、俺はじっと見つめていた。自分の記憶が連続していないのではないか、そんな妙な懸念を持ったからだ。