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 今月も受診の日がやって来た。その日は午前中に仕事を他の者へ引き継いで職場を後にし、真っ直ぐいつものクリニックへと向かった。ナノマシンを注入するため昼食は取らず、前日からアルコールだけでなく水分摂取も控え目にしている。体調の準備は万全で、今回こそ長年自分を悩ませ続けている発熱と決別出来るかと、期待に胸が膨らんでいる。
 予約の時間の少し前に到着すると、早々受付を済ませて待合室で自分の番を待った。今日も自分以外の受診者はそれなりの数がいて、相変わらず世の中のナノマシン需要には陰りがない事を窺わせる。受診者の中には見覚えのある顔もある。事情は知らないが、俺と同じように長年悩まされてる持病があるか、もしくは単に流行っているからやってみようという程度か、そんなところだろう。ナノマシンを受ける者は往々にしてその二種類に分けられる。
 三十分ほど待った後、ようやく俺の番が回って来た。名前を呼ばれ、奥の診察室へと入る。途中、俺が受付をしていた時には既に待合室に居た同年代の女性とすれ違った。表情は随分と明るく、黙っていても何か良い事があったのだと窺い知る事が出来た。大方、ナノマシンのおかげで苦しめられた持病でも快方へ向かっているのだろう。女性は皮膚の病気で相談するケースが多いという話だから、彼女も案外そうだったのかも知れない。
「はい、こんにちは」
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
 診察室へ入ると、もはや顔馴染みになっている医師が端末を打ちながらという慣れた挨拶をする。それに受け答えながら、俺も真向かいの椅子へ腰を下ろした。
「体調の方は如何ですか? 熱はまだ続いています?」
「ええ、残念ながら。またつい先日にも出ました。深夜に突然上がって、朝には嘘のように下がってしまう。いつもと同じです」
「なるほど。もう随分とナノマシンも入れたのですがね。なかなか頑固なようです」
「困った事に。なので、また今回も追加でお願いします」
「そうですね。まあ、その前に血を取って検査をしておきましょう。何せ、国が決めた規則なもので」
 ナノマシンを投入する際は、必ず血液検査をし問題が無いことを確認する事が義務付けられている。前回は問題が無くとも、今回はそうとも限らないから、という事らしい。実際どういった検査をしているのかは分からないが、ナノマシンを注入すると細胞が入れ替わるから、血液にも何らかの変化が起こる事もあるのだろう。
「前回までの経過なんですが、見たところ随分順調に定着はしているんですよ。平常の状態を保とうとする動きにも問題はありませんでした」
「健康体に近付いているという事ですか?」
「厳密に言えば違いますが、まあそう解釈して頂いて構いません。繰り返しになりますが、ナノマシンを細胞と入れ替えても、あくまで現状の構造を模倣するだけです。大きな違いは、ナノマシンには通常の細胞には出来ない細かな挙動の制御などが出来るという事です。普通なら薬を使うなどしないと不可能な人体の生理を、ずっと的確かつ細かに再現出来るという訳ですね。それを今は、平常の状態を保つように動かしている訳です」
「知ってます。言う事を聞かない子供が、聞き分けが良くなるのと同じでしょう?」
「概ねはその通りです。だから、幾らナノマシンを注入した所で、元々人間に出来なかった事は出来ないんですね。無機物を消化するとか、臓器を増やすとか」
「私はその特性を利用して、体が無意味な発熱を起こさないようにしたいんですけれど。まだそこまで制御出来ていないという事なんですか?」
「そうなるのでしょうね。思っていたよりも沢山の細胞が、あなたの体に熱を起こさせているのでしょう」
「それらを全てナノマシンで制御出来てしまえば、もう無意味な熱は起こらなくなりますね」
「支配下に置いても、何故熱を出すのかを突き止める必要はありますがね。その理由だけを無視する挙動をさせる事になります」
「ええ、分かってます。普通の風邪だったら、ちゃんと熱は出して欲しいですからね」
「まあ、根本的な治療が出来れば一番ですけどね」
 人間が発熱する主な理由は、外部から侵入した異物に対しての自己防衛である。免疫力を高めるとか、その働きの結果とか、理由はそういったものだ。時折、それが過剰に機能して普通の生活すら困難になる人がいる。理由は様々だが、俺もおそらくはそれと同じようなものだろう。ただ極端な発熱には、後遺症の可能性という非常に高いリスクがある。俺が一番恐れているのがまさにこれだ。だから、幾ら慣れたとしても、発熱の習慣をそのままにはしておけないのである。
「ところで、少々立ち入ったお話になるのですが」
「何ですか?」
「確か御結婚はまだされていないようですが、将来その予定はありますか?」
「ええ、ありますけど」
「でしたら、ナノマシンも程々にした方が良いですよ。ナノマシン化が進み過ぎて、子供が作れなくなったケースがありますから。今なら良い解熱剤もありますし」
 確か先月にもそんなニュースを見たと思う。ナノマシン化の監理ミスで精巣までが意図せず置換され、精子が作られなくなってしまった男性の事件だ。ナノマシンは細胞とそっくり入れ替わる事が出来るのだけれど、未だ一部の機能は再現出来ないそうだ。生殖関連は正にそれに当たり、下手をすると子供を作れなくなってしまう。だから一般的には、特別な事情が無い限りは生殖器のナノマシン化は行わないようにするのだ。
「ああ、そういう事でしたら御心配されなくても結構。特に問題はありませんので」
「そうですか。そういった事は各々の事情や考え方がお有りでしょうから、あまり言及はしませんが。念のため、そういうリスクの事も考えておいて下さいね」
「はい、分かってます」
 無論、そのリスクの事は注入を始める前に説明を受けるし自分でも調べていたから、ちゃんと把握している事だ。そしてその事については、少なくとも俺にはリスクとならない。キョウコにだけ知られなければ良い事だ。