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 今度の週末は祝日と繋がった三連休となっている。お互い仕事も休みであるから、この機会にどこかへ小旅行へ行く事になった。思い返せば、二人で何処かへ旅行に行くなど初めての事である。俺は割と出不精のため、普段の休みですら家に居る事が多い。そのため、旅行などという発想がそもそも出て来ないのだ。そんな中でのこの小旅行の件は、キョウコからの提案である。若干面倒臭いとは思ったものの、自分からこういう事を言い出すのは珍しい事だから、たまには俺もやる気を出してみようと思い立ったのだ。
 プランを練るのにはあまり時間をかけず、その週の中頃には大まかに決めて予約を済ませてしまった。目的地は市街地から離れた温泉街という、観光としては非常に無難なものである。ただキョウコの話では今何かと話題になっているから、という事らしいので、とりあえず期待はしても良さそうな雰囲気だった。世間の流行り廃りには俺より詳しいキョウコが言うのだから、自分でも無意識の内に期待が大きく膨らんだのだろう、当日の朝はやたら早くに目が覚めてしまった。
「さて、荷物は大体いいよな?」
「大丈夫よ。あ、携帯の充電器は持ったかしら?」
「いいさ、それぐらい。たったの二泊三日なんだし、最悪どこかの売店で買えばいい」
 出発日、俺達は朝早くから揃って部屋を後にする。それからタクシーで目的の駅へ移動し、一般車両とは別の離れたホームから特別快速の列車に乗り込んだ。休日という事もあって相当な混雑を覚悟していたものの、時間帯が早すぎたのか思ったほどでもなく、案外楽に指定席へ座れた事に拍子抜けする。念のため余裕を持って早めに移動を始めたため、出発まで二十分と中途半端な時間が空く。特別快速の指定席とは言っても、外の景色はまだ駅のホームの中であるため、これは非常に退屈なものだった。
「随分早く乗れたよな。みんな出掛けたりしないもんかね。連休だっていうのに」
「多分、私達の移動が早いのよ、きっと。次の電車はもうちょっと混むのかも」
「ふうん。まあ、俺も人混みとかは苦手だからな。空いてる分には構わないけど」
「この電車は全席指定ですから、混雑はしませんよ。それより、次の車両には専用のロビーがあるから、後で行ってみましょう」
 キョウコと他愛もない雑談をしている内に、車両内にアナウンスが流れ出す。それから程無く電子音の汽笛が鳴り、乗車口がけたたましい音を立てながら閉まる。そして列車はゆっくりと走り始めた。丁度進行方向側に背中を向ける席に座っていた俺は、普段は感じ慣れない前へ引っ張られるような慣性がかかって内臓が妙な気分になった。昔から乗り物酔いはした事が無かったが、こういう慣性を引っ切り無しに続けられると、もしかすると起こしてしまうかもしれない。
「まだこの辺だと市内だね。走り出したばっかりだから」
「三十分も走れば市街へ抜けますから、違う風景が見られると思いますよ」
「三十分? あれ、この電車ってどれぐらい乗るんだっけ?」
「大体一時間半に満たない程度です」
「うわ、結構かかるな。リニアのが良かったんじゃないか?」
「この方面には走っていませんよ。別にいいじゃないですか。こういう移動も、旅行の醍醐味です」
 そうキョウコは実に楽しそうに微笑んだ。俺とは違って旅慣れしているからなのか、随分と余裕が感じられて頼もしく思う。俺は全く旅行などした事が無いし、移動スケジュールを立てるのも苦手以前に全く不出来だから、今回はほとんどキョウコに任せっきりである。素人の俺とは違う、旅慣れたキョウコの言う通りに従っていればまず間違いはないのだろう。
 現代人は普段から何かと時間に追われ過ぎている。こういう休みの時ぐらい、のんびりと時間を使うのが良いのだろう。そんな事を思いながら頬杖をつき、窓の外の景色を眺める。まだ外にはコンクリートジャングルと昔から皮肉られている高層ビルや高架橋が押し合うように建ち並んでいる。見下ろすような威圧感や、肌を削るような冷たさを、こんなに離れた所から見ているだけでも感じてしまう嫌な景色だと思う。こういうものが無い所に行くと、きっと気分が随分変わるに違いない。
「イサオさん、冷凍みかんは食べますか?」
 キョウコは手荷物からタオルに包んだみかんを取り出した。やや皮が萎み皺が増えたような見た目のみかんは、表面にうっすらと白みがかかっている。まだ溶け始めてはいないようだ。いつの間に買ったのかと思ったが、どうも自分で作っておいたものらしい。
「お、何か懐かしいな。貰うけど、俺はもうちょっと溶かしてからの方が好きなんだ」
 受け取ったみかんはタオルごと窓縁に置いておく。放っておけばその内日差しが当たって溶け出すだろう。一方キョウコは早速皮を少しずつ剥きながら食べ始めていた。凍った皮を素手で剥くのはかなり苦労するはず、と思っていたものの、こちらも食べ慣れているのかすいすいと皮がめくれていた。何か特殊なコツでもあるのだろうか。
「私、子供の頃から好きだったんです。旅行へ行くと、必ずお父さんに冷凍みかんをねだって買って貰ってて」
「へえ、じゃあ小さい頃から旅行なんか行ってたんだ」
「そうですよ。連休になると良く行っていました。イサオさんは?」
「ん? 俺か?」
 逆に問われて、俺は昔の事を思い出してみた。しかし、子供の頃自分が何をしていたのか、記憶がぼんやりしていて今一つはっきりと思い出せない。大人になると時間の感覚が変わるから思い出せなくなるらしいが、俺は専ら熱で苦しんでいた事が多いので、むしろそちらに取られているように思う。俺は子供の頃は何をしていただろうか。これと言って特に思い出せないのは、何やらもの寂しくなってくる。
「あまり良く覚えてないな。ま、今と変わらないだろうさ。休みになっても、一日中家でごろごろしてて」
「習慣になってしまっているのですね。でも、少しは変えた方がいいですよ。健康に良くありませんから」
「徐々にな、徐々に」
 健康に良くないとは言っても、どうせ内臓はほとんどナノマシンに置き換えてしまうのだから、厳密には大して気にする事でもない。もっとも、人間は気分や雰囲気というものを大事にするのだから、気にする事は全くの無駄という訳でもないのだろう。この旅行だって、言ってしまえば規模が違うだけで、ただの気分転換でしかない。