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 寝る直前までは本当に何ともなかったのに。それは、すっかりこういう事態の口癖になってしまった。
 露天風呂も堪能し、豪勢な夕食に舌鼓を打ち、非常に満ち足りた気分で床についたのに、突然襲って来たそれのおかげで真夜中に目を覚めさせられてしまった。せっかくの旅行先で起きるなんて。この時ほど俺は、心底自分の体質が恨めしく思った事はないだろう。
「イサオさん、これを頭の下に」
 熱で意識がおぼろ気な俺の頭の下に、キョウコが水枕を挟み込んだ。こんな事態にも備えておいたのだろうか、随分と用意が良いと思う。水枕の冷たい感触は心地好いのだけれど、旅行に来てまで看病をさせる自分がとても情けなくてならなかった。
「今湯冷ましを作りますから。それから薬を飲みましょう」
「ああ、すまん」
「いいんですよ」
 部屋の照明は消したままで、キョウコは非常灯の小さな明かりの所で電熱器でお湯を沸かしているから、ここから顔は見えない。だけど、何となくいつもの穏やかな笑みを浮かべているような気がした。癒されるようで、また俺は迷惑をかけていると自己嫌悪に陥る、そういう表情だ。
 キョウコが用意した湯冷ましで解熱剤を飲む。市販薬ではなく処方薬だから効果は強いはずだが、今まで解熱剤がまともに効いた試しがない。今回もきっと同じだろう、そう自虐的に思う。それでも薬を飲めば眠くなるから、ありがたい事はありがたかった。この熱もどうせ一晩経てば嘘のように消えて無くなる。今はとにかく時間だけが何よりの特効薬である。
 薬を飲んだ後、たちまち俺は深い睡魔に襲われてあっという間に眠った。薬による睡眠は実に不快で、眠りに縛られたまま熱にうなされる感覚が残っており、酷く体力を消耗させられる。自らの意思で起きられないのが何より辛いのだが、それもとっくに俺は慣れてしまっている。むしろ、目が覚めた後にもショックが残るような悪夢の方が恐ろしい。特に熱がある時は酷い夢を見易いのだ。
 不安だった夢は運良く見なくて済み、そのまま朝を迎える。ゆっくりと目を開けると、カーテン越しに日が射し込んで来ていた。キョウコは既に起きていて、お茶を飲みながら音量を絞ったテレビを見ている。直後、目を覚まし体を捩った俺に気が付き、視線をこちらへ向けた。
「おはようございます。体の調子は如何です?」
「ああ、おはよう。大丈夫、いつもの通り―――」
 そう言いかけて、上半身を起こそうとした時だった。持ち上げようとした自分の体があまりに重くて持ち上がらず、自分の体を起こせなかった。自分の重さくらい熟知しているし、力加減も間違えようがないのだが。体が重くなったというより、力を込められなかったのだろうか。
「……あれ」
「どうかなさいました?」
 体がおかしい。普段の目覚めと違う。
 一瞬、慣れない枕と布団で寝たから、体に負担がかかって違和感を感じたのだと本気で思った。節々に走る鈍い痛みは、布団か寝ている時の姿勢のせい。頭のふらつきは起き抜けだから。そう思っていた。けれど、この違和感の正体はすぐに何なのか察知してしまい、まさかと否定したくなった。祈るような気持ちで自分の額へ手を当ててみる。しかし、自分で自分の体温が良くは分からなかった。
「熱、下がってないのかも……」
「えっ?」
 すぐさまキョウコが駆け寄り、俺の額に自分の額を重ねる。キョウコの額がとても冷たく感じた。それで、やはり自分の体が酷く熱くなっている実感が湧いてきた。急に背筋の悪寒が顕著になり、奥歯が小刻みにかたかたと震え始める。
「ああ、酷い熱……。ほら、イサオさん。まだ横になって下さい」
 キョウコに促され、捩った体の位置を戻して布団の定位置へ戻る。キョウコは温くなった水枕を取り、俺の布団を直してから水を交換しに洗面所へ向かう。それから湯冷ましを作り薬の準備をする。てきぱきとした動作だったが、明らかに普段と違った焦りの雰囲気が伝わって来た。俺が回復していない事を相当深刻に思っている風だった。
 朝になっても熱が引かないなんて初めての事で、俺自身も酷く動揺していた。熱は日常茶飯事だったが、どんなに高熱を出しても翌朝以降まで続いた事はこれまで無かった事だ。だから、これはいつもの発熱ではなくて、インフルエンザのような質の悪い病気ではないか、そう想像してしまう。けれど、喉の痛みや咳も無いただの発熱だけという症状のせいで、どうしても普段の発熱と同じとしか思えない。発熱が日常茶飯事が故に、他の病気であればすぐに症状の違いに気付くのだ。
「イサオさん、薬を飲んで下さい。夜に飲んだ時から、間隔は十分に空いてるはずですから」
「分かったけど、でもその薬は空腹で飲まない方がいいんだ」
「あっ、そういえばそうでしたね。待って下さい、何か食べるものを探してきます」
 寝かされた直後に体を起こされ、いつもなら間違わない薬の用法を間違う。キョウコは随分動揺が顕著である。俺は冷静でありたいと思いながらも、人の動揺を見るとかえって冷静にはなれなかった。昨日の出来事の中に熱を長引かせる原因があったのではないかと、今考えても意味のないような事をやってしまう。
「お饅頭も全部食べてしまいましたから、ちょっと売店へ行ってみます。そのまま休んでいて下さい」
 そう言ってキョウコは財布と鍵を持って部屋を飛び出していった。この時間に売店が開いているとは思えないが、それ以外にも自販機はあるし、最後は宿の人へ直接頼むだろう。キョウコはいつもそれぐらいしてくれる。
 一人残された部屋の中で、俺は今の自分の状態について色々な事をゆっくりと考えた。結局はいつもの体調に対する恨み節になるのだけれど、一つだけはっきり確信した事がある。それは、今の俺の体の中にあるナノマシンの数では、健康体に到底足りないという事だ。もはや悠長なスケジュールに従っている場合ではない。多少強引にでも、速やかに体の中のナノマシンの比率を上げてしまわなければ。
 ナノマシンを増やし過ぎると人体にどういう影響が出るのか、一般的にそれはまだはっきりとは分かっていない。だけど、今の俺はそういう段階を通り越しているのだ。何より我慢の限度なのである。もういっその事、二度と発熱に悩まされぬよう、可能な限り全てを生身でなくしたい。多少リスクを犯してでも。そうとすら思う。