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 自分の体について、どこを着地点にするのか。それが具体的に決まるまで、ナノマシン化は一旦休止する事にした。そもそも冷静になって考えてみると、これだけ内臓のナノマシン化が進んでいるというのに発熱が収まらないのは、治療の方向性が間違っている可能性も考えられるのだ。高いナノマシン化には相応のリスクが伴う。だから、今一度治療の継続について再検討する時期に入っているのだ。当分はナノマシンの事は忘れて、日常の生活に終始しよう。そんな結論を下して以来、俺もキョウコも互いにナノマシンの事は会話に出さなくなった。いささか不自然でもあるが、こういう事は適切な時期が来れば自然と会話に上がるものだ。
 その日の仕事は、いつも通りの息が詰まらない程度の忙しさで、それなりに充実感のあるものだった。午前中は棚卸しや在庫のチェック、やがて午前の診察を終えた患者が処方箋を持って来始めると、仕事はそちらの対応へ移って来る。持ち込まれる処方箋は近隣の大小様々な病院の医師によるもので、頻繁に目にするあまり覚えてしまった名前も少なくない。処方箋はまず、処方された内容が適切かどうかをチェックする事から始める。これには、患者に対して余計な薬を処方させて薬代を不正に稼いだり、薬そのものの違法な転売を防ぐ目的がある。この処方箋の確認とは意外に面白く、処方される内容からそれぞれの病院や医師の治療方針の違いが見えて来て、そこがどういった経営理念を持っているか等様々な事が窺える。当然、薬剤師の観点ではあるが、医療そのものの良し悪しも推測出来る。流石に公言するような事はしないものの、特に親しい人間にはこっそり教える事もある。
 昼休みも終え、処方箋の持ち込みのピークが過ぎた頃。ふと顔馴染みの人間が処方箋を持ってきた。彼女はこの近所に住む中年の主婦で、循環器の持病がある。ナノマシン化もしているようだが、あまり効果が出なかったらしい。人当たりの良い朗らかな性格だが、いつも大声で長話をしていくのが欠点だ。
「お久しぶりですね。元気そうで」
「何言ってるのよ。相変わらず病院通いよ。まったく、なかなか良くなってくれないんだから」
 処方箋を出しつつ、早速いつもの長話が始まる。今は店内に他の客もなく、タイミングとしては良いのやら悪いのやらと苦笑いしそうになった。
「そうそう今日なんだけれど、今度認可されたばかりの新薬を使ってみないか、ってお医者に勧められたんだけど。何でも私の体質に合いそうだからって。でも実際どうなのかしらね? ミラクレバンとかいうそうだけど、新薬って使った人がまだ少ないんでしょう? 危なくないのかしら」
「今時はそうそう薬害事件なんて起きませんよ。試験には数年かけるんですから。それにその薬なら、正確には新薬じゃなくて、若干成分を変えただけのリバイバルです。使用している方も非常に大勢いますから、全く問題はありませんよ」
「あら、そうなの? じゃあ試してみようかしら」
 彼女は今聞いた話をメモし始める。おそらく友人との噂話のネタにでも使うのだろう。見聞きした事をすぐにメモするのは、物忘れの対策だと言っていた。その対策中の隙に、ようやく処方箋の内容の確認を行う。内容は前回と同様の一日三度服用する薬だ。効果は高く無いが、体への負担が軽く値段も高くない、大体店の売り上げの大半を占めていたりする、そういう手合いの薬だ。
「そうそう、ところでね。最近、うちの長男が口聞いてくれなくって。どうしたものかしらね。こっちから話し掛けると、うるせークソババーってすぐ怒鳴るでしょう。もう何だか恐ろしいやら心配やら」
「まあ、難しい年頃ですからしょうがないですよ。確か高校生でしたっけ?」
「そう。中学入った頃はまだ良かったけれど、本当に最近は酷いのよ。ろくすっぽ話も聞かないし。会話はメシと小遣いばっかり。それはともかく、勉強はどうしてるのかしらね。ちゃんとやってるのかしら。それにもう来年は受験でしょう? 大学とかちゃんと決めてるんだか」
「進学は学校に行っていれば嫌でも耳に入りますから大丈夫ですよ。学校の先生やら友人やら、徐々にそういうの気にし始めますし。どこの大学がいいかとか、むしろ先生の方が詳しいですから、今は学校に任せてしまってもいいじゃないですかね」
「そういうものかしらねえ。せめてお父さんには相談して欲しいものだけど。ところで、イサオちゃんは子供の頃はどうだったの? やっぱりそういう事言ったりした?」
「自分ですか? 自分は……」
 不意に自分の事を問われ、慌てて自分の昔の事を思い出した。一般論として思春期の少年の話をしたが、わざわざ自分の例を思い出しても意味は無いようには思う。どうせ俺も彼女の息子と同じで、やたら両親に突っかかったり暴言を吐いたりと、お決まりのコースであるからだ。それでも何か違いを持たせようと、自分のエピソードを掘り起こしてみる。
 しかし、
「あら、イサオちゃん? どうかした?」
「えっ?」
「いやだ、急にボーッとしちゃって。何かあったのかしら?」
「あ、ええ……。最近ちょっと疲れているのかもしれません」
「まあ、まだ若いのに。あっ、そういえば彼女と同棲しているんだっけ? むしろ、お若いからかしら」
 そう彼女は如何にもな下世話な話口調で笑い声を上げた。大声でそんな話を店内に響かせる彼女に、流石に俺は苦笑いして会釈するしかなかった。こういう事を平気でするような人ではあるが、悪気は無いのだし、しつこく同じ話題を繰り返したりもしないからさほど不快感が無い。だから、いつものことではあるけれど、この場は黙って苦笑いだけ浮かべてやり過ごすのが正解である。
 それはともかく。
 彼女に苦笑いしている中、俺は少々自分に困惑していた。今彼女に振られて自分の学生時代の事を思い出してみたのだが、それが全く何も思い出せなかったのだ。もう何年も前の事だからはっきり覚えていないのは当然としても、断片的にすら出てこないのは少しおかしいのではないかと思う。急に振られたから驚いて何も出て来なくなったのだろうか。今まで学生時代の事を振り返る事なんてほとんどした覚えがないだけに、すぐに出来なかった事が無性に不安でならない。