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 本当はその日は帰りに、今日発売の週刊誌を買って帰るはずだった。帰路の途中の本屋で、寄ってもせいぜい五分ぐらいしかかからない。だけど俺はその五分も我慢が出来ず、ちゃんと覚えてはいながらあえて寄らずに真っ直ぐ帰宅した。
「お帰りなさい。もうすぐお夕飯ですよ」
 自宅には既にキョウコが帰ってきていて、夕食の支度をしていた。俺は挨拶もそこそこに自室へと急ぐ。上着と鞄を放り投げ、まずはキャビネットから中身を漁った。この部屋に越して来て何年も経っているが、持ってきた荷物の中には確かクラシックな写真印刷のアルバムがあったはずである。表紙は青で四隅の角が少し傷んでおり、一番最後のページ破れかかっているから写真を貼っていない。そこまでは覚えているものの、肝心のどこに仕舞ったかまでは覚えていない。だが、そう何度も出して見るようなものではないだろうから、仕舞ってある場所は限られているはずだ。
 キャビネットの中を全て調べてみたものの、目的のアルバムは見付ける事が出来なかった。続けて中身の移り変わりが激しい机の脇の本棚や、年に何度も使わないようなものを入れる押し入れも探ってみたものの、一向にそれらしきものは見つからない。
 果たしてどこに片付けてしまったのか。あれこれ思い出している内に、ふとリビングの本棚にアルバムを幾つか仕舞っていた事を思い出した。以前二人で見るために出して、そこへ仕舞ったのかもしれない。早速俺はリビングへ向かった。
 うちのリビングにはさほど調度品は揃えておらず、ローテーブルにロングソファーと立体液晶テレビといった、どこのうちにもある家具家電が大半である。他に目立ったものとしては、吊り下げ型の棚とそこにぽつぽつと並んでいる小鉢の観葉植物くらいだろう。
 テレビの台座代わりになっているキャビネットは、昔職場で処分するというものを譲って貰ったものである。確かここにアルバムが何冊か入ってはず。早速俺はキャビネットの戸を開けて、中に詰まった冊子類を全てテーブルの上に広げた。
 並べながら薄々勘づいたのだが、キャビネットの中にあるアルバムはどれも新しい装丁のものばかりで、収められている写真はほとんど印画紙ではなく電子ペーパー、しかもキョウコが共に映っている。数はそれなりにあるものの、本当にここ数年のものばかりである。これくらいの事ならば、思い出すのはさほど苦にはならない。
「イサオさん? 何を探しているのですか?」
 どたばたと騒がしくやっていたせいか、キッチンカウンター越しにキョウコが不思議そうに覗き込んだ。
「ああ、ちょっと。俺のアルバムなんだけど」
「キャビネットにありませんか? 後はそこの棚に何冊かありますけれど」
「いや、そういう小さいのじゃなくて、もっと古い奴なんだ。俺が実家出る時に持ってきたはずの」
「実家、ですか」
 そう呟きキョウコの表情が途端に訝しげなものに変わる。何となくその表情に、俺はとても心外なものを感じた。
「何だよ、俺だってアルバムくらい持っていたっておかしくないだろ」
「い、いえ、別に他意はありません。ただ、急にどうなさったのかと」
「ああ、うん。ちょっとな」
 キャビネットのアルバムは全て調べたが、結局目的の物が見付かる事は無かった。出したアルバムを片付け、一通り思い当たる所は探したので一旦休憩にする。時刻も時刻で腹も空いてきた。キョウコも間もなく準備が終わるだろう。他にどこか調べていないところはあっただろうか。ソファに体を沈めながら、部屋の中を頭の中で順繰りに思い浮かべる。そうしている内に夕食の用意が出来たので、ダイニングテーブルの方へ移った。今日の夕食は魚の煮付けと葉野菜のおひたしなど、和食でまとめられていた。キョウコは何でも作るが特に和食が得意で、俺もこの煮付けなどは好物である。
「晩酌はどうしましょう?」
「今日はいいかな。最近飲み過ぎてるようだし」
「それもそうですね」
 そんな調子でいつものように淡々と夕食が始まる。うちでの夕食時はテレビは見ない事にしている。俺はどちらでも良かったのだが、キョウコの実家の教育方針がそうだったらしく、俺もそれに合わせる形を取ったのだ。その分、その日にあった事などの会話などを幾つかする。こういう食事をしている家は珍しいようで、以前職場でこの話をしたら随分珍しがられたものだ。
「ところで、アルバムがどうかなさいました?」
「ん? ああ、さっきのか。まあちょっとね」
「ちょっと?」
 そのちょっととは何か。そう明らかに言いたげなキョウコの視線が向かってくる。先日、互いにすれ違いが生まれぬよう出来るだけ何でも話すようにしよう、そう決めたばかりではないか。そんな心の声が聞こえて来そうな表情である。
「今日の仕事中にさ、ふと昔の事が気になったんだけどさ」
「昔の事ですか。どれくらい?」
「ずっと昔。俺が子供や学生ぐらいの頃。それで、俺って昔はどんな子供だったっけって思い出そうとしたんだけどさ……」
 そこで言葉が詰まった。別にキョウコへ話す事ぐらい恥ずかしくも何でもないはず。分かってはいるものの、どうにも突っ張ってくる見栄が言葉を躊躇わせた。
「うん、実は思い出せないんだ」
「思い出せないって、もう十年近く前の事でしょうから。そんな事もあるのでは?」
「いや、全く思い出せないんだよ。普通は正確には思い出せなくても、幾つか印象や思い出ぐらいは断片的に覚えてるものだろう? それすら無いんだよ」
「全く思い出せない……ですか。学校の名前とか、同級生の名前も?」
「そう。何一つ思い出せない。自分がどんな学校に通ってたとかさ。それで、徐々にこれっておかしいんじゃないかって思ってさ。それで昔の事を確認しようと思ったんだよ」
「何一つ、というのは確かに変ですね」
「だろう? 俺だって、大人の姿で生まれてきた訳じゃないんだから、普通は子供の頃の事も覚えてるはずなんだよ」
「もしかすると、一時的な健忘症かもしれませんね。ストレスが原因で、一時的にそういう風になる事があるという話を聞いたことがありますから」
「健忘症なあ。なんかそれ、痴呆の始まりっぽくないか?」
「それとはまた違いますよ。慌てると普段出来ている事が出来なくなる、そういう事の延長ですから」
「そんなものなのかな」
 別段今すぐ昔の事を思い出す必要はないのだけれど、これが何かの前兆であったりすると困る。自分がまた新たな病気を抱えてしまったのではないか、そんな危機感が芽生える。この忘れる事がどこまで延焼するのか、最悪のケースを想像するととても落ち着いてはいられなくなる。
「その内、病院で相談して来るよ。何かまずい病気だったら嫌だから」
「そうですね。昔はともかく、最近の事まで忘れられたら困りますから」
「会社の行き方とか忘れたら困るもんなあ。薬の名前とかも忘れたら洒落にならないし」
「私はイサオさんに忘れられたら悲しいですね」
「何だよ急に。何言ってんだよ」
 そんな事になるはずがないだろう。そう言い掛けたものの、キョウコの半ばからかうような表情に気付いて、その言語を慌てて飲み込んだ。