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「記憶喪失、ですか?」
 久し振りに訪れたクリニックは、いつもと何ら変わらない落ち着いた雰囲気で、不覚にも居心地の良さを感じさせてしまうほどだった。そんな馴染みの場所での以前の自分の醜態は出来るだけ掘り起こさず、何事も無かったかのように診察室で自分の症状を出来るだけ細かに話す。担当医は俺の話をきちんと時折メモを取りつつ聞いていたが、話し終えた直後の第一声はそんな呆気ない台詞だった。
「いや、本当にそうなのかは分かりませんよ。ストレス性の健忘症かもしれないとも聞きましたし。とにかく、放っておいて良さそうとは思えなくて来たのです」
「なるほど。ともかく何事も早期発見に越した事はないですからね。本格的な精密検査は準備が必要なので今日は出来ませんが、可能なものは一通りやってみましょう」
「お願いします。この歳で痴呆なんか困りますからね」
「若年性の痴呆は、今は薬だけで大体治りますから、そんなに怖くありませんよ。それよりも、別な問題だったりすると場合によっては大変ですね」
「と、言いますと?」
「脳梗塞とか血栓症とか、そういった類の病気です。程度によっては早急な手術も必要ですし。もっとも、そういう疾病の場合は他にも症状が出ますから、簡単な検査ですぐ判断出来ますよ」
 と微笑む担当医の表情には、随分と楽観の色が濃く出ている。今の時代はさほど深刻な病気ではない、といった素振りである。しかし一度は疑いをかけてしまった相手という事もあり、俺は単に医者として患者を不安にさせないよう振舞っているだけではないのか、そう穿って見ずにはいられなかった。
「そういう病気って、場合によっては後遺症も残るとか。足が動かなくなったりなんかする場合もあるんですよね」
「まあ、昔はそうでしたね。でも今は初期段階であれば薬で簡単に治療出来ますし、手術方法も進歩しているので負担は驚くほど軽くなりました。万が一そうなってしまったとしても、ほら、例のナノマシンがあるでしょう? あれで神経細胞などを刺激してやると、リハビリなんてものが不要に思えるくらいあっという間に治ってしまうんですよ」
「なるほど。だったら大して怖がる事もないんですね」
「そうならないよう未然に防ぐのに越したことはありませんけれどね」
 それももっともだ、と俺も素直に頷く。医療保険は万全ではあるけれど、治療はタダではないのだ。それに、何事も万が一という事がある。わざわざ好き好んで自分の病気を重くするほど、俺は酔狂な人間ではない。
 問診が終わると、早速検査が始まった。まずは採血と採尿、それから身体スキャンで血流の流れを撮影する。静電気に対する筋肉の反応に動体視力の検査、そして聴覚や視力色別のテストから、しまいには区分けされた箱のスペースにそれぞれボールを置いていくという、まるで動物の知能実験のようなものまでやらされた。検査の主旨が脳の異常を調べるものであるだけに、何かしら意味があって行う検査なのだとは思う。しかし、流石に後半続いた軽微な作業を繰り返しさせられるのは、まるで自分が馬鹿になってしまったように思え、少々気が滅入るものがある。
 一通りの検査が終わる頃には、時刻は夕方になっていた。待合室には俺だけが残り、後の患者は皆全て帰ってしまってがらんどうとしている。このクリニックの診療受付時間も過ぎており、俺が今日の最後の患者のようである。遅くまできちんと検査をやってくれたのは感謝すべきところなのだろう。けれど、担当医の誠意に感謝しつつも、まだ頭の隅には面倒な患者と揉め事を起こしたくないだけだ、という穿った意見がこびりついていた。
 一人でぽつりと待合室の真ん中で待っていると、やがて検査結果が出たらしく診察室の方へと呼ばれた。中へ入ると担当医だけがディスプレイとカルテとを交互に睨んでいて、他の看護師達は店じまいといった雰囲気で片付けに奔走していた。その慌ただしさに、自分は早く出て行った方がいいのではないかと落ち着かない気分になった。
「さて、検査の結果なのですが。とりあえずはどこも異常はありませんね」
「とりあえず、ですか」
「とりあえず、です。テレビでやっているのよりは上等程度の検査ですから。まあ脳梗塞のような深刻な疾病の類は前兆も見つかりませんでしたし、特に重大な脳疾患の心配は無いと言って良いでしょう。これは確実です」
「つまり、病気のせいで記憶がおかしくなっている訳ではないのですね」
「そうなります。となると、次に疑うべきは心因性、ストレスの方になります。最近何か心労心配事はありますか?」
「答え難い質問ですね。それを、あなたが私に訊ねますか?」
 失敬、と担当医は苦笑いする。先日の事を本当に失念していたらしい。
「現状で日常生活に致命的な支障を来していないのであれば、まずは経過を見ても良さそうです。改善の傾向が見られなかったり、むしろ症状が悪化した場合は、別の精密検査をしましょう。場合によっては、本格的な設備の整った大学病院などへ転院する事も検討する事になるやもしれません」
「転院は出来るだけしたくないですね。別に他意は無いですけど、ここの診療が気に入っているもので」
「患者にそう言って頂けると医者冥利につきますね。まあ今日のところはこのままお帰りになって結構です。また来月に経過を聞かせて下さい。もし悪化したりすれば、すぐに連絡を」
「分かりました。そうします。要はストレスを溜めないよう、気楽に生活していれば良いのですね」
「そういう事です。心因性の症状はそれだけでも意外と改善する事がありますから」
 結局の所、まだ何も具体的な治療をする段階ではないという事なのだろうか。もう少し何か他に具体的なものがあっても良いだろう、とは思ったが、あまり食い下がってはまた安定剤やら眠剤やらを処方されるだけだろう。自分は薬剤師だけれど、医者のように病気に詳しい訳ではない。この場はおとなしく言う事を聞くのが良さそうである。
 立ち上がって一礼し、診察室を後にしようとしたその際、ふと思い立った俺は足を止めて担当医に訊ねた。
「ところで先生、つかぬ事をお訊きしますが」
「はい? 何でしょうか」
「先生は昔、どんな子供でした?」
「私ですか? ははっ、困りましたね急に。私は健康体なんですが」
「どの程度思い出せるのが一般的なのか、参考にしたいだけですよ」
「そうですか。私はかなり不真面目な学生でしたよ。中学の頃はしょっちゅうケンカをしていましたし、高校の頃は受験間際まで髪を赤と青に染めてました」
「また派手にやってましたね。今からじゃ想像がつきませんよ。それがまたどうして医者に」
「うちの実家が代々医者でしたからね。まあ、二浪して何とか医学部へ入り、卒業後は親に開業資金を出して貰って今に至るという訳です。まあ、こんな所でどうです?」
「ありがとうございました。参考になります」
 何がどう参考になるかはさておき、俺は今度こそ一礼して診察室を後にした。
 今の担当医の答え方、それは多少はよどみながらもはっきりと答えているという、確かに自分の過去を思い出せている仕草だった。普通はみんなそうなのだろう。子供の頃を訊かれたら思い出すのに多少時間を使い、それから断片的に答えていく。昔に遡れば遡るほど時間は長く必要になるし内容も曖昧になるが、何かしら思い出せる部分はあるものだ。
 現在、俺にはその断片すら無い。さらりと過去を思い出せた担当医が、俺にはとても羨ましく思えた。