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 キョウコとは外で食事をする事は時折あるが、バーのような所で酒を飲んだりする事はほとんど無かった。理由は単純で、時折キョウコが年相応に見られず確認されるような事があるからだ。確かにキョウコの外見は人によっては十代と間違えてもおかしくはないのだが、実年齢より若く見られるのは手放しで喜べるものでもない。
 週末はうちで酒を飲む事が多い。明日の仕事の無いキョウコも、こういう時は俺と一緒に飲む。その日も先に帰って来たキョウコが食事を用意し、俺は途中で酒を買い込んで帰った。無論、俺が酒を買う理由も言うに及ばない。
 残業があったせいで、家に着いたのは普段よりもやや遅い午後八時過ぎだった。キョウコは食事の支度を済ませ、それを食べずにテレビを見て待っていた。特に何か言った訳でもないが、こういういじらしい所が可愛いと思う。あまり待たせてはなるまいと、俺は自室で手早く荷物を整理し服を着替えリビングへ戻った。
 テレビを消し、食事をしながら二人でゆっくりと談笑にふける。平日は共に早く寝てしまうせいか、割と会話する時間は取れていない。その不足分を補う事も兼ねている、と勝手に俺は決めているが、そもそも代わり映えしない生活が続く中で話題がそう幾つもあるはずもなく、キョウコも口数が少なくて聞き役になる方が多いだけに、無理に話を振っても長続きはしないのだ。その点、週末は色々と都合がいい。明日の事をあまり気にしないで良いし、酔った勢いでの下らない話で会話をした気分にも浸れる。
 今週もまたお互い素面ならくすりともしない談笑を繰り広げる。そうしている内に、先に俺の方が酔いが回って来て、段々と舌の回り方が怪しくなってきた。もうそろそろ泥酔との境界だろうか。一旦酒を止め、ソーダーを飲みつつ頭を冷やす。
「なあ、ところでお前は昔の頃ってどんなだった?」
「何ですか、急に」
 酔いにどっぷりと浸かっている最中、俺はふと思い立った事を問い訊ねてみた。キョウコはうっすら赤くなった顔で小首を傾げながら答える。
「ちょっと知りたくなっただけ」
「以前もお話したと思いますけど」
「忘れちゃった。最近物忘れが酷くて」
 勿論、忘れたというのは嘘で、単なるおふざけである。それに気付くものの、キョウコは微苦笑しながら話し始めた。
「私のうちはごく平凡な家庭でしたけれど、私は一人っ子の上に両親が共働きだったため、家では一人で留守番している方が多かったですね」
「あまり外で遊ぶ方じゃなかったんだっけ」
「ええ。もっとも、引っ込み思案な性格で人付き合いが苦手でしたから、友人もそう多くはなかったせいもあります。まあ、そういったちょっと暗い子供でしたね」
「家にいる事が多かったから、自然と家事を覚えたんだったよな」
「両親の帰りが遅いから、なるべく負担を減らしてあげようというのもありましたからね」
 キョウコの今時珍しい家庭的な部分は、そういった幼少時代に拠るものである。ただでさえ見た目が歳相応に見えないのだから、付き合い始めの頃は尚更困惑したものだ。時折見せる幼げな仕草に惹かれるのはそのせいだろう。
「私の体がこうなってしまったのは高校二年の時ですね。実は今でも良く覚えてないんですよ」
「覚えてない?」
「そうです。車にはねられたというのは後から聞いて知った事ですし、私が覚えているのは急に背中へ何かが強く当たった事までです。次に気が付いた時は既に病院で、それも治療が全て終わった後でした。それからは色々でしたね。自分の体の事とか、寿命がそれほど長くはないかもしれないとか。今でこそ過去の話に出来ますけど、そこまで折り合いをつけるのが大変でした」
「確かにそうだよな。目が覚めたら自分の周囲の状況ががらりと変わっているんじゃ、幾ら何でもすぐに納得出来るもんじゃないし」
「納得というよりは、自分に何が起こったのかを飲み込むだけで精一杯でしたね。誰も理解者はいませんし、そもそもこれだけ人体をナノマシン化した症例も無かったですから」
「まあ、今は全部折り合いついてて良かったよな。いや、今は今で俺が散々世話をかけさせてしまっているけどもさ」
「いいんですよ、そういう事は。それよりも、どうしたんですか?」
「どうしたって何が?」
「私の話です。以前話した時、もう昔の事は思い出さない方がいいっておっしゃっていたじゃないですか。体のナノマシン化の事なんか関係ないって」
「あ、そうだっけ? まあ、そうだったかな」
 そう笑って誤魔化し、再び酒を飲み始める。我ながら酔って誤魔化そうという意図が見え透いているが、お互い酔っている事だから押しきれるだろう。そう思いながらキョウコの様子を窺うと、にこにこしながら俺の方を眺めてグラスを両手で包むように持っていたので、おそらく大丈夫だろう。キョウコの酔っている時の仕草は解り易い。
 安堵するも束の間、ふと俺は一瞬で酔いも覚めそうな事に気が付いた。今聞いたキョウコの昔話、そのほとんどをいつどのようにして聞いたのか思い出せないのだ。けれど、話の内容はともかく、聞いた状況を忘れてしまうというのはそんなに珍しくはないはずである。ただ、自分では絶対覚えていると思っていたら実は忘れてしまっていたから、思わず怖くなってしまっただけなのだ。
 冷静に分析すると、幾らか気持ちは穏やかになった。だけど次に、今はその程度で済んでいるだけだ、という新たな懸念が生まれ、再び不安を煽って来た。
 本当に、この記憶喪失はただの物忘れなのだろうか? 現在進行形の危険な病気ではないのか?
 病気ならナノマシンを使えばいい。それが俺の持論である。だけど、こればかりは出来そうにないと思った。自分の臓器のどれをナノマシン化しても自分は自分だが、脳までを自然でなくしたらロボットと同じだからだ。流石に、自ら人間を止めるような事は出来るはずもない。