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 幾つかの検査を受けたものの、案の定発熱の原因を特定するまでには至らなかった。区立の設備が整った病院であるため、普段はなかなか受ける事の出来ない最新鋭の遺伝子検索や断面撮影も行ったものの、判定は完全な健康体と出されてしまった。俺を昏倒させた発熱の原因は既に治療で消えてしまったか、もしくは未知の潜伏型のウィルスなのか。単なる体質では片付けられない症状ではあったものの、あれきり何も変化が無い以上は手の打ちようがなく、快癒という事でその週末に退院する事になった。取り合えず、当面は体調の変化に良く注意をして、何かあればすぐ救急車で駆け付けるよう担当医から名刺を受け取ったのだが、それは今までの生活とは何ら変わらず、ただ話の早い受け入れ先が一つ増えただけに過ぎない。
 土曜の午前中にはキョウコに退院手続きをして貰い、そのままタクシーで帰った。バスですぐ帰れる距離だとは言ったものの、病み上がりだから念のためとキョウコに推されたせいである。熱を出した時の看病は慣れているはずではあるけれど、さすがに今回のは堪えたのだろう。キョウコはいつになく神経質になっている事がひしひしと伝わって来る。
 数日ぶりに帰って来た自宅は、何だか妙に新鮮に映った。まるで引っ越し直後のような気分である。確かに最近は物忘れをするようにはなったが、自宅が新鮮に感じる分には構わないと思った。
「すみません、イサオさん。食事の買い物を忘れていました。何か出前を取りましょうか?」
「ああ、昼飯? そうだなあ、俺、カツ丼が食べたい。あ、ピザもいいなあ。チーズ割り増しで」
「いけませんよ、病み上がりでそんな重いものは。何か温かい蕎麦を取ります」
「なるほど、選択権はないのね。じゃあ、天婦羅そばね。かき揚げじゃないよ。海老天が乗ったやつ」
 果たして伝わったのかどうか。特にキョウコは返答もせず、端末で注文を入力をしてしまう。病院では低カロリーの味気ないものばかり食べていたので、いい加減胃にずしんとくるような物を食べたいのだが。幾ら自分で健康体だと言っても、実際原因不明の熱で死にかけた後では説得力もないのだろう。
 俺がリビングでさほど面白くもないテレビを眺めてる間、キョウコは洗濯や掃除と非常に忙しない。普段家事は任せきりであまり気にした事はないのだが、キョウコの負担は随分なものだったのだと今更思う。何か便利な家電でもあれば買ってやるのだけれど、キョウコはあまりそういったものをねだったりする事がない。家事の事はあまり分からない俺が選んで買っても、本当に必要なものかどうか分からないから、かえって邪魔になる可能性もある。つくづく、俺は一人だと何も出来ないのかと思う。いや、それだけ普段からキョウコに甘えているだけか。
 やがてインターホンが鳴り、出前が到着した事を告げてくる。キョウコが返事をして掃除の手を止めかけたが、それを制して俺が出る。さすがにこれぐらいの事は出来るのだ。
 配達人から品を受け取って代金を支払う。プラスチックのお盆に乗っていたのは、半透明のシリコンの蓋をかけられた蕎麦のどんぶりが二つと中皿が一つ。蓋越しに中を見ると、天婦羅らしきものの姿は見られなかった。かけそばを頼んだのかとがっかりしかけるも、良く中皿を見るとそれはどうやら天婦羅の盛り合わせのようだった。天婦羅そばではないが、全くの的外れでもない。
「おーい、蕎麦来たぞ。昼飯にしよう」
「分かりました。すぐに行きます」
 二人分の蕎麦の乗ったお盆をダイニングテーブルへそっと置いて、天婦羅は中央に、それぞれの席の前にどんぶりを置く。それから冷蔵庫の中から浅漬けと麦茶を持ってきて並べる。簡素だが、久し振りの我が家の食卓が出来たと、しばし感慨に耽る。やはり病院のベッドの上で食べる食事はうまくはないし、何より楽しくない。その点、何障る事の無い分、食事は自宅に限ると断言してもいいだろう。
「お待たせしました。御飯が少し余っていますが、食べますか?」
「んじゃ一膳だけ」
 病院で出された食事は、常食でも御飯が非常に柔らかい上に何かしら雑穀が混ざっていた。白米を食べ慣れている俺には、一食二食ならともかく、毎食これではすぐに嫌気が差してたまらなかった。組み合わせは学生のようだが、白米を食べられるだけでも非常に満足感を覚える。
 仕度を整え早速二人で昼食を始める。かけそばは見た目には地味であるものの、一緒に注文した中皿の天婦羅の量は十分過ぎる程多く、かなり豪勢な昼食に見える。久しぶりに嗅ぐ油の香りがより食欲をそそった。
 手始めに大きな海老天を一つ取ると、それを一旦蕎麦の上を経由して半分ほどかぶりつく。かりっとした衣を噛み砕く音が歯越しに伝わり、舌の上にじわりと海老の旨味が広がる。思わず唸ってしまいそうなほどの快感だった。やはり食べたいものを食べられるというのは、それだけで幸せなのだろう。
「しかし、かけそばが来たと思ったから、危うくがっかりするところだったよ」
「あのお店は天婦羅を一緒に入れて持って来ますからね。着く頃には衣がどろどろになってしまいます」
「なるほど。俺は天婦羅はかりっとしたのが好きだからな。気を使って貰っちゃったね。こっちの方で良かったよ」
「良いも何も、これは元々イサオさんが仰っていた事ですよ? だからいつも、注文する時は天婦羅そばではなくて、かけそばと天婦羅盛りがいいと」
 そう驚いた顔で俺を見るキョウコ。俺も驚き、蕎麦を手繰っていた手が止まった。
 俺は今まで天婦羅そばは食べず、必ず別々に注文していたのだろうか。言われてみればそんな気もするが、はっきりとそれをキョウコに言ったのかどうかは思い出せない。単にそんな昔の事など忘れていただけかと思うものの、実際にそうならばキョウコに対して天婦羅そばが食べたいと言ったりはしないはずだ。
 果たしてこれは、ただの物忘れなのだろうか。
「やっぱ俺、物忘れ酷くなってんのかな。いっそ脳までナノマシン化してしまえば、物忘れなんてしなくなるかな?」
「冗談でもやめて下さい、そんな事を言うのは」
「なんだよ、そんな真に受けるなって」
 別に軽い冗談のつもりで言ったのに。何故か浴びせられた険しい視線にうろたえ、それからは口数も少なくなって淡々と食事を続けた。