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 土曜日、指定された時刻通り俺達はクリニックへ到着した。本日休診の札が下がっているが鍵自体はかかってはおらず、俺達はそのまま中へ入った。待合室は照明を減らしているため、いつもよりやや薄暗くなっていた。テレビの電源も入っていない。そんな待合室のベンチで、担当医は腰を下ろしてのんびりと新聞を読んでいた。薄緑柄のポロシャツにアイボリーのスラックスというラフな出で立ちで、いつもワイシャツに白衣の姿ばかり見ていたからどうにも見慣れなかった。
「おはようございます。ちょっと早かったですね」
「そうですか? こんなもんでしょう」
「いえ、実はお相手の方が少し遅れているそうなので」
「何かトラブルでも?」
「そういう訳ではありませんよ。ただ、少しお体が不自由な方なので」
 体に不都合があるという事は、俺よりも症状が重いのだろうか。そうなった原因は、まさか熱のせいではないのか。そんな事が頭をよぎる。俺と似ている症状と言われているだけに、どうしても自分と重ねて見てしまう。
「なるほど。じゃあ今日は大丈夫でしょうかね?」
「なに、それほど心配しなくても大丈夫ですよ。もうちょっと待ちましょうか。コーヒーでも如何です? 実は良いブルーマウンテンがあるんですよ」
「おっ、いいですね。いただきましょうか」
「でしたら、私が淹れて来ましょう」
 そうキョウコが口を挟む。俺は思わず怪訝な顔をしてしまった。キョウコはハンドミキサーもあまり上手には使えず、未だに泡立て器を使うほどなのだからだ。
「お前、コーヒーなんて淹れられたっけ?」
「ミルぐらいはちゃんと引けますから、御心配無く」
 そう言ってキョウコは無人の医局のドアから奥へ入って行った。給湯室はそっちの方にあるのだろう。
「そう言えば、キョウコさんとはもう長いんでしたよね」
「何ですか、急に」
「いえ、仕事も落ち着いているのなら、身を固めても良いのではと思いましてね。なあに、外野の意見ですよ」
 そう笑う担当医に、俺は苦笑いを浮かべる。この人もこういった話題を口にするのか、といささか驚いていた。勤め先の常連である、あの主婦とは対極の性質だと思っていたのだが。
「まあ、ちょっと古風な所もあるけれど、細々とした所に気が付くし、どんなに疲れていても何かと優しいし、何より俺の病気にも理解がありますからね。俺もなるべく早急にそうはしたいんですが、何せこの体質がどうにかならない事にはとても。その後の生活の足枷になるようでは、元も子もないですから」
「病気なんて幾らでも付き合い方はありますよ。要は日常生活をきちんと送れるようにするにはどうすればいいのか。その方法の模索ですから」
「まあ、実際日常生活を送れていないんですけどね。それで、先生こそどうなんです? 医者はモテるでしょうに」
「いやあ、私はさっぱりです。私生活はそれほどマメな人間ではありませんからね。どうにも長続きしなくて。親は早く孫の顔を見せろとせっついてくるんですけどね」
「他に御兄弟はいらっしゃらないのですか?」
「姉が一人います。まあ、あちらもちょっと訳ありで。姉弟揃って、まだまだ親孝行とはいかないんですよ」
「なるほど。まあ、急いでする事でもないですからね」
「そうですとも。時代が違いますから」
 お互い顔を合わせながら、どちらからともなく声に出して笑った。こんなに屈託の無い笑いをこぼすのは一体どれぐらいぶりの事なのか。それが、親しいとは言っても友人でも無い担当医とは何となく不思議なものである。普段とは違って白衣が無いから、医者と患者という関係を持ち出さないのだろう。
「もう随分長い付き合いですが、こんな話をしたのは初めてじゃないですかね?」
「そうでしたっけ」
「あれ、もしかして同じ質問をしてませんか。ほら、俺は最近記憶が消えるから」
「大丈夫ですよ。こんな事くらい、誰だってあります。ほら、またあの話してるよ、って言われている人なんて珍しくないでしょう?」
「何だか、前向きに捉えて良いものか悩むフォローですね」
「いいんですよ。人はそもそも忘れるように出来ているんです。忘れないのは、一種の天才か病気のどちらかですから」
 嫌なことから離れるために、人間には忘れる能力がある。そんな一般論があるが、必要な事まで忘れてしまう俺にとっては、その忘れる能力とやらをもっと緩和して欲しい所である。まだ実生活に支障はないものの、以前よりも確実に忘れている記憶は増えているのだから。
「お待たせしました」
 やがて給湯室の方からキョウコがお盆にマグカップを並べて運んで来た。たちまち待合室にコーヒーの香ばしい香りが漂う。普段はインスタントばかり飲んでいる俺は、座っていても分かる強くて深い香りに思わず驚きの声を漏らしそうになる。
「先生、どうぞ」
「どうも。うん、やっぱりいい香りだ」
 担当医はキョウコから薄い青のマグカップを受け取り、早速鼻を近づけて香りを楽しむ。そんなに鼻を近づけたら蒸気で熱いのではないか、そんな事を俺は思った。
「はい、イサオさんも」
「ん、サンキュ」
 俺は残る二つの黒いマグカップの内一つを受け取った。コーヒーは間近で嗅ぐと更に良い香りがするのが分かった。さほどコーヒーに詳しい訳でもなければ違いも分からないのだが、流石にインスタントとは決定的に違う事くらいは分かる。
「先ほど笑い声が聞こえましたけど、何を話していらしたのですか?」
「まあ、両親には苦労するなという話ですよ」
「そうですか? 私には良く分かりませんけど」
「男の問題だからな。こういうのは」
「はあ、そうですか」
 良くは分からないと小首を傾げたキョウコは、それ以上は追求せず、息を吹きかけながらゆっくりとコーヒーを飲み始めた。俺も飲もうと思ったものの、あまりにコーヒーが熱く、どうにも舌が受け付けなかった。もう少し冷ます必要がありそうだ。
「何にせよ、いずれは解決しないといけない問題はありますからね。ゆっくり着実にですが、ちゃんと解決策は見つけていきましょう」
「そうですね。でも、俺は先生の嫁探しは出来ませんよ。俺もそんなマメな性格じゃないですから」
「私のは後で結構。急を要していませんから」
 担当医は苦笑いしつつ、熱いコーヒーをごくりと一口飲んだ。良くもあんな熱いものを一口に飲めるものだ。俺は彼の解答よりもそちらの方が気になって仕方なかった。